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平智之議員への規制反対派による対応方法(別名・先生に言ってやろう作戦)

 民主党の平智之議員がユニセフ議連の会合に出席し、そこでアグネス・チャンの話を聞いたというブログの記事が、規制反対派内部で話題になっています。以下が記事の抜粋です。

キャンパスに向かう前にユニセフ議連の会合
に参加させてもらいました。衆議院会館にNY
からユニセフの事務局長が来られてお話をされ
るということで参加いたしました。

アグネス・チャンさんのお話しもお聞きしました。
現場に即した素晴らしいお話でした。

議論のなかで、
児童ポルノグラフィの問題をはじめて知りました。
実在する児童の図画は規制できても、コミックス
やゲームという仮想対象の図画は規制しにくい
ので、文書・図画の規制とは別の方法で規制す
ることの可能性を検討しているとのことでした。


 で、ですね。あくまで個人的な提案なんですが、平議員への攻撃は控えた方が良いと思います。その理由ですが、この時期の国会議員、特に新人や再選の議員には、地元の利権代表に加えて、有象無象の怪しい「政治活動家」がロビイング攻勢をかけてくるのが通例だからです。つまり、知名度があるとはいえ、アグネス・チャンはこうした「怪しい政治活動家」のワン・オブ・ゼムに過ぎません。もちろん、我々も同様です。

 しかし、それでも平議員の意見表明には納得がいかないという方には、民主党支持者限定ですが効果的な方法があります。それは、民主党の石井一議員に平議員の件を報告する、というものです。

 何故に平議員本人ではなくて、石井議員なのかというと、
1)石井議員が来年度の参院選の選挙対策委員だから。
2)石井議員は民主党の中でも反公明党の急先鋒とも言える存在だから。
3)石井議員は、民主党内における新人議員の育成担当(?)だから。
 です。つまり、創価学会とずるずるべったりで、池田大作を褒め称えること甚だしい、アグネス・チャンの知名度をリバースで使ってしまおう、という目論見なんですね。

 メールの文面は以下のようなものが望ましいでしょう。ただし、今回の件はコピペを避けたいので箇条書きにしておきます。文面に関しては、ご自身で作成して下さい。

1)時節の挨拶
2)自分の氏名職業、及びに民主党支持者であることの表明。
3)来年度の参院選でも、民主党を応援したいと思っている旨の表明。
4)ただし、民主党が公明党と連立を組む場合は例外であるという念押し。
5)そこで疑問があると話を切り返す。
6)平議員のブログで、アグネス・チャンの話を聞いたという部分の紹介。
7)アグネス・チャンは創価学会とべったりのタレントで、公明党の為に政治活動をしているという旨を報告。

EX)
●アグネス・チャンが本部幹部会で池田大作を礼賛

・12月7日付「聖教新聞」「山本伸一作詞の曲をアグネス・チャンさんが熱唱」「アグネス・チャンさん『池田先生の平和の行動は世界中の人の力になっています』」
 「『池田先生と奥様、並びにアグネス・チャンさんが入場されます!』司会の声に満場の参加者がどよめく。沸き起こる拍手と大歓声。
 池田名誉会長とともに、本部幹部会の会場に現れたアグネス・チャンさん。司会の紹介を受け、深々とお辞儀をし、特設ステージに立つ。イントロが流れる。曲は『そこには 幸せが もう生まれているから』。名誉会長が作詞し、アグネスさんが作曲した作品である。
 「時に繊細に、時に力強く――心を込めて歌い終えたアグネスさん。大拍手で讃える名誉会長と香峯子夫人。アグネスさんは何度もお辞儀をし、語り始めた。
 『池田先生、奥様、そして皆さん、こんにちは!アグネス・チャンです。34年ぶりに先生と再会することができ、今、胸がいっぱいです。もう頭は真っ白です』」
 「10月31日、北京の人民大会堂でのコンサートに臨み、名誉会長作詞の曲を含めた歌を高らかに響かせた。
 『池田先生は、ずっと平和の活動を続けてこられました。先生の行動は、世界中の人々の力となっています。先生からいただいたポエム(詩)。そこには大切なメッセージがあります。平和の大切さと、戦争の悲しみが込められています』
 『先生の歌を歌い広めるのが、私の定めだとも思います。でも私一人の力には限りがあります。皆さんも、この歌をあちこちで歌ってください。先生からいただいたもう一つの曲『ピースフル ワールド!』です!」
 「席上、アグネス・チャンさんに『民音文化賞』が贈られた。池田名誉会長が見守る中、原田会長が賞状を読み上げる。
 『貴女は永年にわたり美しき歌声で平和への歌を歌い続け 人々の心の中に『幸せの花』を咲かせてこられました また日本ユニセフ協会大使等の重責を務められ あらゆる悲しみをなくすため勇敢に誠実に信念の行動を貫いてこられました』
 平和を熱願する名誉会長の詩と、その歌を抱きしめて2度の病を勝ち越えたアグネスさん。満面の笑顔で勝利の歌声を響かせる彼女に、友は新たな平和への前進を誓い合った」


8)新人議員が、公明党のために政治活動をしているタレントに接触し、かつ影響を受けるのはいかがなものかと疑問を提示。
9)締めの言葉(石井議員の活動=反公明党を応援していると激励するのが筋で、政教分離が大事だと主張)。

 と、こんな感じです。石井議員のホームページはここで、メールアドレスはここになります。

 ただし、繰り返しますけど、あくまでも平議員の対応に納得がいかない人で、かつ民主党支持者限定ですからね。平議員に限らず、今後は民主党の新人議員の何人かが、確実に規制派につくでしょうし、そうなると民主党内のバリバリの規制派である小宮山洋子とタッグを組んで、何か仕掛けてくることにもなるでしょう。

 でも、そういうシチュエーションにいちいち過敏な反応をしても、精神的に消耗するだけで、あんまり意味がないと私自身は考えています。それは、相手の活動を無視しろという意味ではなくて、本人を説得するんじゃなくて別の迂回路を使って反対活動をやって下さいということです。

 ぶっちゃけ、エロ嫌いの人にポルノの良さを伝えるのは、納豆嫌いの人に納豆を無理やり食わせるのと遜色がないくらい反感を買う行為でしか無い場合が多いんです。まあ、嫌いな奴に限って、中立的、かつ客観的な立場のフリをしたがるんですが! 他の議員さんに対する対応法に関しては、次の機会に。 

文章の善し悪しをジャッジする基準・完結編3

時間が空いてしまいましたが、続きに行きましょう。

B.社会的事実や歴史的事実に対するリアリティ

 というのは、歴史的事実を出来る限り改編せずに小説を書くことによってリアリティを維持する手法を指します。いわゆる、歴史小説がこれに当たるものです。たとえば織田信長を主人公とした小説を書こうとしたら、信長は1582年6月21日に本能寺の変で死ななければならない、というのが「歴史的事実に対するリアリティ」です。これが生き延びて別人として生活するとか、歴史が変わって信長が世界征服に乗り出す……なんて構成を採った場合は、単なる戦国時代を舞台とした娯楽小説になってしまうわけです。

 このような整合性は風俗、科学技術の発展にも当てはまります。例えば、戦国時代の武将が戦車や機関銃で大暴れという内容の作品はリアリティがあるとは言われません。この点で科学技術の発展の正確性は、

C.科学、あるいは自然科学に基づいたリアリティ

 とも被ります。現存する娯楽小説で、風俗考証の正確性で群を抜いているのは、岡本綺堂の『半七捕物帳』だというのが衆目の一致した見解ですが、これは新聞記者時代の綺堂が、江戸時代の生き証人達にインタビューをとっていたからだと言われています。小説内の日付の天気と、実際の天気までほぼ一緒というのですから、ちょっとこれを越える作品を作るのは難しいでしょう。

 ここでちょっと話を戻して、

C.科学、あるいは自然科学に基づいたリアリティ

 になるんですが、これはまあ、説明不要ですね。いわゆるSFを筆頭とした科学的な描写の正確性が要求される作品に於いて、特に吟味される傾向が強いリアリティです。たとえば、宇宙空間でモビルスーツがビームを撃つというシーンで、真空なんだから音が出ちゃいけないだろうとか、そういうところです。

 さて、難しいのはここからです。

 私は小説におけるリアリティを「現実逃避型の娯楽に対する批判」として主張されるケースが多いと書きました。しかし、先ほど例に挙げた岡本綺堂の『半七捕物帳』などが典型ですが、娯楽小説でもリアリティを上手く表現できている作品というのは存在するわけです。ということは、現実逃避とリアリティは必ずしも対立項ではない、ということになります。

 それでは、何故にこのような主張が成されるのかというと、小説というか「お話」の書き方に幾つかの方法があるからです。

 娯楽というのは、本来「面白ければ何でも良い」という観点から制作されます。つまり、娯楽小説の場合は「面白い話」が作品のコアになるわけです。これは作品の総合判断基準になりますし、ストーリーを構成している各エピソードにも同様の基準でジャッジが下されます。ここで重要なのは、娯楽=面白さはあくまでも話=ストーリーにかかっていることにあります。つまり、「こんな面白い話があるんだけど……」というところから創作がスタートして、このストーリーをどこまで面白くできるかが作者の腕の見せ所、という創作過程を辿るはずなんですね。

 ところが、お話の作り方にはもう1つの方法があります。こちらの方は「面白いかどうか」があまり問われません。じゃあ、どういう風に話を作るのかというと、まず「テーマ」を決めて、そこから演繹的にストーリーを構成していきます。この方法で作られた小説をテーマ小説と呼びます。作業手順からすると、テーマ演繹法と呼ぶのが正確だと思われます。たとえば、政治的主張をストーリーとして語るとか、宗教的な教義をストーリーとして語る、などというのがテーマ演繹法で作られた創作物の典型で、かなり古くからこの技法があったことがお分かりいただけると思います。

 テーマ演繹法の最大の特徴は、ストーリーを最初に作る必要がないという点にあります。これはもの凄い転倒で、普通なら「お話」を最初に考えるところから創作がスタートするのに対して、最初に「テーマ」を考えるところから創作がスタートするのでこのような現象が起こるわけです。

 といっても、なかなかピンと来ないでしょうから、具体的にテーマ演繹法でストーリーを作っていきましょう。

 まず『恋愛』というテーマで小説を作ることが決まったとします。

 そうすると、まず思いつくのが恋愛をするカップルの設定が必要だと言うことです。そこで、男女のカップルのキャラクターを仮設定します(BLだったら男性同士でも構いません)。

 続いて、このカップルが恋愛を成就するまでの過程を描く必要から、彼らの恋愛を邪魔するキャラクターを仮設定します。これは、男性に横恋慕する女性だったり、あるいはその逆だったり、または二人の恋仲を認めない親だったりします。

 しかし、これだけではストーリーの進行が阻害されるだけなので、カップルを陰に日向にと援助するキャラクターを仮設定してみましょう。これは、男性の友人だったり、女性の友人だったり、思い切ってファンタジックな架空生物にしても良いかもしれません。

 こうして、恋愛というテーマを表現するために必要なキャラクターの仮組が終わったら、続いてこれらのキャラクターを「配置」してストーリーを作ります。たとえば、カップルはストーリー当初から知り合いなのか、それとも、ストーリーの進行上で知り合いになるのかなどが、この「配置」にあたります。

 これは、あくまでも大ざっぱな方法ですが、以上のようにテーマ演繹法では、ほとんどの場合、まずテーマに沿ったキャラクターの仮組が行われ、これをテーマを表現するのに相応しいポジションに配置して、そこからストーリーを作っていくという方法を採ります。要するに、テーマ演繹法で大切なのは、まずはテーマで、次にこのテーマを表現するためのキャラクター配置なのです。

 こうやって、手順を解説していくと、テーマ演繹法で作られる小説と、通常の娯楽小説では、ほとんど正反対の過程で創作が行われていることがお分かりいただけるはずです。

 クリエーターから見た場合、テーマ演繹法の最大の利点は「簡単に作れる」ことです。キャラクターやシチュエーションの取捨選択を「テーマに沿っているかどうか?」でオートマティックに決定できるから、というのがその理由です。テーマ演繹法で作品を作ろうと思えば、誰にでもストーリーの骨組みまでは簡単に出来ます。というよりも、テーマ演繹法ができないなら、その人は作家を諦めるべきでしょう。

 2つめの利点としては、出版社の企画会議を通りやすいという事情が挙げられます。後に詳しく説明しますが、プロの作家や編集者、そして評論家でも「何が面白いのか?」を論理的に説明できる人間はまずいません。これは論理構成能力の欠如が原因ですが、彼らの大半は自分のことを棚上げにして、面白さはブラックボックス、あるいは感性の問題であると考えています。

 以上の理由から、企画会議の際に「この作品はどこが面白いのか?」という議論が成されることはまずありません。その代わり「今回の作品は、テーマが愛です」などというプレゼンテーションが行われることになります。その際にテーマ演繹型の作品は、プレゼンター、この場合は編集長クラスの編集者が「分かり易く」テーマを説明できるため、会議で承認を得やすいという状況が生じるわけです。

 3つめの利点としては、作者の文章力がそれほど必要ない、ということが挙げられます。つまり、テーマ演繹法を使った作品では、キャラクターがテーマに沿って特定の役割を果たすために登場することが前提ですから、文章構成上のテクニックが無くても、読者は「ああ、このキャラクターは××の役割を果たすために存在するんだな」と認識することが可能なんです。これは、よく言えば分かりやすさ、悪く言えば読者に「先を読まれている」状況なのですが、それ故に文章力が最低レベルでも読者がテーマ演繹法と同じ思考論理を辿って、作者のつたない文章力を脳内で勝手に補正してくれるんですね。

イクォーリティ・ナウの攻勢再開と、強姦魔の実体。

 更新が遅れて申し訳ありません。

 実はプライベートな件で大転換があったため、とてもネットどころではないという状況でした。というか、現在でもこの大転換は継続中で、11月になるまでは先行き不透明というのが実情です。

 その間に民主党による組閣が進み、内閣の全容も明らかになったところで、いよいよ規制推進派も活動を再開したようです。具体的にはレイプレイ事件で悪名を馳せたイクォーリティ・ナウが、規制問題のキーパーソンにメールによる攻勢を仕掛け始めた模様。

 イクォーリティ・ナウのサイトから判断すると、メール攻勢の対象となっている人物は、

1)アマゾンジャパンの社長である、ジャスパー・チャン。

2)民主党・鳩山由紀夫(第93代内閣総理大臣)

3)社民党・福島瑞穂(内閣府特命担当大臣・消費者及び食品安全担当・少子化対策担当・男女共同参画担当)

4)民主党・千葉景子(法務大臣)


の4人と思われます。

 この中で要注意なのは福島瑞穂で、これは本人の思想信条よりも男女共同参画担当という政治的なポジションが原因です。公明党もそうだったんですが、男女共同参画絡みの官僚の中に、どうも反ポルノでゴリゴリに固まった人がいるようで、長期間にわたって男女共同参画に関わっていると、いつの間にか規制推進派の言い分を少しずつ呑んでいってしまう……といった状況が生じる危険性があるからです。

 また、福島と千葉は2000年に「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」を提出した関係から、従軍慰安婦問題から横滑りしてきた児童ポルノ規制推進派と何らかのコネクションがあることが予想され、これを通じて毒を盛られる危険性も考慮しておくべきでしょう。ただし、児ポ法関連の創作物表現規制問題に関しては、どちらも慎重論を表明しており、この点ではよっぽど凄いダブルクロスさえなければ、それほど心配する必要はありません。

 やはり問題なのは、今回の件が「レイプ」を扱ったパソコンゲームであるという事実です。これなら直接的に児童ポルノとは関連性がないため、規制推進を黙認する危険性が残されています。

 規制反対派も改めてメールや封書で福島や千葉議員に事情を説明しておく必要があると思われます。

 今回は事情説明のみで、具体的な案に関してはもう少し待って下さい。この問題に関する経緯に関しては、Запретная Зонаに書かれていますので、そちらを参照して下さい。

 実は、このメール攻勢が起こる前に、広島県の小学校で女児に悪戯しまくって懲役30年の実刑判決が下った、元教師の森田直樹の一件を調べていたんですが、森田に広汎性発達障害の傾向があるとする弁護側の犯罪心理鑑定書が証拠採用されていたのを見て「うーん」と唸っていた最中でした。

 もちろん、アスペルガー障害の人が、すべからくこういう事件を起こすわけではないし、むしろ犯罪に関わる率は普通の人よりもずっと少ないんですが、こういう「常識的に考えてあり得ない」事件の背景には、やっぱり脳の問題があるんですよ。

 ところが、具体名は挙げませんけど、犯罪ウオッチャーを自称している連中の中には、性犯罪の累犯者に精神病患者や知的障害者が多いという事実を無視、あるいは調べてもいないのに「犯罪者を社会的弱者に見立てるのは許せない!」と喚いていたりするんですよね。

 これが規制推進派になると、事実無視と論理的飛躍が更に激しくなって、ポルノのせいで犯罪が起こるってことになるんですが、現実世界の人間の脳にばらつきがあるんだから、受け取った情報をどう処理するかは、その脳の状態に大きく左右されるという、ごく当たり前の事実をどうして認識できないのか、いくら考えてもよく分かりません。

 人間の脳にばらつきがないなら、確かに犯罪を起こすのは環境のせいかもしれないし、あるいは育成のせいかもしれませんよ。でも、現実の人間には誰がどう考えたって個体差があります。だから、「人間の脳が同じだったら……」という前提で演繹された理論は、必ず現実から乖離するんです。

 実は、レイプレイの一件でてんやわんやだった時期に、私は池袋ショッピングセンター(ISP)にある多目的トイレに入っていて、そのトイレを執拗に開けようとした上に、中に入って(私に)悪戯しようとした男性をひっ捕まえたんですけど、こいつはどこからどう見ても知的障害者でした。多分、何らかの事情で性的に興奮するスイッチが入っちゃって、トイレに入っている人間を見境なく襲おうとしたんでしょう。

 これが私じゃなくて非力な女の子だったら、確実に強姦未遂か強姦事件発生ですよ。いろいろ考えた末に、この男性を警察に突き出すのは止めましたけど、こういう現実を知らないで、新聞の記事だけ読んで義憤を募らせるのってどうよ? もうちょっと「現実」を見る気にはなれないんですかね?

文章の善し悪しをジャッジする基準・完結編2

(3)のリアリティは、現実逃避型の娯楽に対する批判から主張されるケースが多く、

A.心情描写のリアリティ
B.社会的事実や歴史的事実に対するリアリティ
C.科学、あるいは自然科学に基づいたリアリティ

 に大別されます。

 A.の心情描写のリアリティは、日本の近代小説の理論的支柱となった、坪内逍遙の『小説神髄』(1885年)の頃から主張されているもので、これは主に江戸期の戯作批判、具体的には滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を念頭に置いて書かれている、とされています。ここで坪内は小説を、

 小説は仮作物語の一種にして、所謂奇異譚の変体なり。奇異譚とは何ぞや。英国にてローマンスと名づくるものなり。ローマンスは趣向を荒唐無稽の事物に取りて、奇怪百出もて篇をなし、尋常世界に見はれたる事物の道理に矛盾するを敢て顧みざるものにぞある。

 と定義しています。このような文章の存在は明治期から娯楽小説に対する正しい理解が行われていたことの証左でしょう。そして、これらのロマン主義文学の系譜に沿った小説を批判し、その対抗策として坪内が主張したのが「人情」です。これも、小説神髄の原文から引用してみましょう。

 小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情慾にて、所謂百八煩悩是れなり。夫れ人間は情慾の動物なれば、いかなる賢人、善者なりとて、未だ情慾を有ぬは稀れなり。

 ここで坪内が言いたいのは「正義の人だって偉い人だって、人間なんだから悩んだり苦しんだりするはずで、そういうところを書かなきゃリアルじゃないよ」ということで、いわゆる単純な勧善懲悪もののキャラクター設定を廃し、登場人物の感情の起伏を主題に据えようというものでした。

 坪内は英米文学の専門家だったので、これをノベルと称したのですが、「悩んだり苦しんだりするところがリアル」という定義づけが、前述したドイツのビルドゥングスロマンと重なる点が多いことは、改めて指摘する必要もないでしょう。

 これが、後に坪内の盟友となる二葉亭四迷になると、内心独白の重要性が更に徹底され、彼の書いた文学評論である『小説総論』では既に認識論的リアリズムが提唱されています。こちらの方は引用すると長くなるので端折りますが、二葉亭が言いたかったことは「Aという事象を見たって、Bという人とCという人では感じ方(認識)が違うんだから、ここをちゃんと書かなきゃリアルじゃないよ」ということです。すごいでしょ? 明治期の文学理論は、もの凄く高度だったんです。

 ところが、理論が高度でも技術が追いつかない。坪内逍遙は『小説神髄』の理論を実践すべく、1885年に『当世書生気質』を書き始めるのですが、技術的には戯作の影響から脱し切れていないという評価は可愛い方で、実際に読むと戯作そのものだったために(技術面では)大失敗。

 その原因は明白です。坪内は戯作の熱心な読者で、その模倣から文筆活動をスタートさせ、そしてそれ以上の練習をしなかったんですね。これは、どの時代の、どの国の作家にもありがちなパターンで、幾ら高度な理論を提唱しても技術が旧態依然だったら革新的な作品は書けないんです。当たり前の話なんですが。

 坪内の失敗を見た二葉亭四迷は、天才落語家の三遊亭円朝の速記本から着想を得た文体で『浮雲』の執筆を開始します。しかし、こっちはこっちで2重の意味で失敗作でした。

 1つは円朝の速記、すなわち口語体を文章に取り入れたことでした。この方法なら既存の戯作文体からは脱却できますが、同時に落語家の話し言葉というのは、どう考えても一人称三人称になるので、認識論的リアリズムを主張するのであれば採用せねばならない単純一人称とそもそも構成が異なります。

 これに気づいた二葉亭は『浮雲』の後期から主人公の心情描写に文章のウェイトを高く置く方法を採用し、認識論リアリズムとの整合性を図ろうとするのですが、今度は心理描写を正確に行おうとした作家が概ねはまってしまう地獄、すなわち「意識の散漫」という問題に直面します。

 つまり、心理描写を正確に書こうと思えば思うほど、人間の意識の流れというものは均一ではなく、思考は途中で断絶し、別のことを考えたらまた元に戻ったり……という点まで「正確に」再現する必要に迫られます。これを忠実にやっていたら、登場人物の意識が散漫になる瞬間にストーリー展開もグチャグチャにならざるを得ず、話がアッチへ飛んだりコッチへ飛んだりを始めたあげくに、最後にワケが分からなくなってオシマイです。

 たとえば、Aという主人公がBという女性について悶々と思い悩んでいたとして、その途中でお腹が減って「ご飯が食べたいな」と思ったとしましょう。心理描写を正確に書くという原理原則に従えば、当然のことながらこの「お腹減ったな」と思うところまで再現しなければならないわけです。でも、これに意味があるんでしょうか? これが2つめの失敗です。

 先述の通り、このような失敗は何も二葉亭だけが犯してしまったものではなく、それどころか彼より後に、ジェームス・ジョイスやヴァージニア・ウルフなどの名だたる英文学者が「意識の流れ」という手法で試みることになり、そしてその大部分は見事なまでに二葉亭と同じ運命を辿っています。

 逆に言うと、二葉亭は後の英米文学がはまった罠を先取り(?)していたことにもなるわけで、実は当時の日本文学というのは世界的に見ても、かなり良い線を行っているんですね。ただし、この方法で小説を書いていたら、話が散漫で意味不明になっていくのは避けられず、結局、日本文学は一時期でしたが私小説という単純一人称で延々と主人公の独白(意識の流れ)を書いていく「だけ」というスタイルに収斂してしまいます。ありがちな評価ですが、心理描写のリアリズムを追求した結果、娯楽性を失ってしまったわけです。

 ただ面白いことに、日本人の作家、及びに作家志望者のかなりの割合が、小説神髄なんか絶対に読んでない、ましてや小説総論なんてタイトルすら知らないはずなのに、内心独白、心情描写の重要性を訴えてくるんですよ。しかも、たいていの場合、ありとあらゆるデタラメな理屈をつけて、です。

 じゃあ、どうしてこうなるかというと、元々、心理描写が好きという人が多いのも事実なんですが、やっぱり何のかんの言って情景描写の練習をしないからです。そうなると、できることが心理描写に限られるから、自動的に「コッチが大事」と主張するケースが多くなってしまうのは仕方ないんでしょう。

 結局のところ、日本文学史において文章力の技術革新やその向上に果たした役割が大きかったのは、先述の三遊亭円朝が広めた落語の速記本による口語体文章と、淡島寒月が再発見した井原西鶴の2つでした。

 日本における言文一致体について知っている人で、三遊亭円朝について知らない人はいないでしょう。というわけで、円朝についてはパス。

 淡島寒月は私が嫉妬する趣味人の一人で、あのあっけらかんとした金持ち道楽を見ているとヒステリーになるのでやっぱりパスだ……とは言えないな。まあ、これもすんごく端折って説明すると、寒月は趣味の古書収集、写本の途中で偶然にも井原西鶴の存在を知り、これを後に知り合った作家連中に教えたら西鶴ブームが起こったという非常に厄介な御仁です。何が厄介かというと、本人の文章はほぼ西鶴のデッドコピーでオリジナリティはなく、小説も途中で止めちゃう飽きっぽさなのに、後世に与えた影響は絶大で、しかし、本人の再評価はつい最近まで行われてこなかったという面倒くささ。

 この寒月による文人達への井原西鶴の紹介が、おおよそ1887年前後で、坪内の『小説神髄』が発表された1885年とほぼ同時期だったのは、ある意味でラッキーでした。というのも、寒月の影響下で井原西鶴研究を始めた作家陣、特に幸田露伴と尾崎紅葉によって、世態風俗をファーストプライオリティとした小説の書き方が定着したからです。坪内と二葉亭がアイデア重視型の作家だったのに対して、幸田と尾崎が典型的なテクニシャン系の作家だったのは偶然ではないでしょう。

文章の善し悪しをジャッジする基準・完結編1

●基準4(編集者から見た文章のクオリティ)

 さあ、ここで初めて娯楽小説の内容に踏み込んだ上で、文章との関連性について考えていきましょう。

 娯楽小説は大きく分けて、
1)現実逃避
2)教養補助
3)リアリティ
4)実学・啓蒙補助(うんちく系)
5)反教養

 という互いに矛盾する商業的な要素で構成されています。

(1)の現実逃避は解説不要でしょう。要は「読んでいる間は現実を忘れさせてくれる」事を目的として書かれる文章で、娯楽の基礎です。

 日本における娯楽小説のフォーマットを定着させたのは、明治44年(1911年)に出版された立川文庫でした。立川文庫は講釈師の玉田玉鱗(後の二代玉秀斎)の講釈を、義息の山田阿鉄が速記したという体裁で、実は阿鉄(及びに彼の創作仲間)が大幅に脚色した「書き講談」の貸本を文庫サイズに新調したものでした。阿鉄は前職が小学校の教員で、文章作成能力と史実に対する一定水準の知識があったため、当時の基準からしても古臭かった講釈を現代風に翻案(書き講談)することができたわけです。これが講談本です。

 講談本は講談師、講釈師のお話を文章化したという体裁を採ったため、文章の基本は会話口調、視点は一人称三人称で、物語は伝記、立志伝、戦記などの歴史物が主体でした。これは、基本的に現代の娯楽小説とほぼ変わりがありません。

 ただし、このようなフォーマットは阿鉄のオリジナルではなく、そのほとんどは「いただき」でした。彼の最大のヒット作になった『猿飛佐助』は、西遊記と戦国物のいいとこどりで、妖術の代わりに忍術、またこの忍術を駆使した勝負モノと新しい部分はありません。ストーリーも基本線は勧善懲悪、それも権力者を悪に見立てて逆らうというもので、こちらも取り立ててオリジナリティに溢れているわけではないんです。

 じゃあ、何で立川文庫がこれだけ当たったかというと、立川文明堂の創立者である立川熊次郎が常に全年齢向けの娯楽小説を作家に要求していたからです。全年齢というのは、要するに子供でも読める内容にしろということです。小学校の教員だった経歴を持つ阿鉄には、間違いなく読者の対象年齢が具体的に理解できたはずです。

 前回、私は「いわゆるヤングアダルト系の小説=ライトノベルの場合は12歳程度の読者を想定して執筆する」というお話をしました。多くの出版社は、立川文庫の大ヒットから売れる作品の原理の一端を掴んだため、以降はこのような内部規定(もちろん、戦前と戦後では学校制度が違うので、細かい年齢には変化があるのだが、この点は割愛する)が設けられました。

 ただし、誤解の無いように言っておきますが、読者の知能程度を12歳前後であると想定して創作する、というのは読者が馬鹿だという意味ではありません(作者や編集者には、このような読者=馬鹿説を信じている不遜の輩が多いのは嘆かわしいことですが)。たとえば、ラノベの主要な読者層が、レーベルによってやや差があるものの、高校生、大学生、社会人であることを、大部分の作家や編集者はアンケートなどから理解しています。その上で「敢えて」12歳程度の年齢を想定して小説を書くんです。

 元々、幼少期から熱心な読書家というのは、同年代の子供に較べると知識欲が強く、また文章読解力が高いのが通例で、本人達にもそうした自覚があります。ただし、だからといって専門書を読解できるだけの論理構成力があるわけでも、また金銭的な余裕や意欲があるわけでもありません。

 あくまでも出版業界の俗説に過ぎませんが、日本では3000円以上する高額書籍の購入者というのは、概算で3000〜5000人前後に過ぎず、これを狭義の「読書人口」と呼んでいます。でも、こうした人達「のみ」を相手にした商売では、出版業の規模というものは恐ろしく小さくなってしまいます。商業的には、こうした専門書の読者と初等教育を習得した程度の読者層の中間に位置する層に向けた書籍の発行が、スペクトラム状に必須となってきます。

 じゃあ、そうした本を作るにはどうしたら良いのか……という「商業的な要求」の解答の1つが立川文庫だったわけです。山田阿鉄が革新的だったのは、「娯楽を追求していったら底が抜けた」点でした。つまり、阿鉄と彼の仲間が書いた小説というのは、読者サービスを追求しすぎて荒唐無稽になってしまったんですね。当時の識者は当然として、先述した「読書家」も『猿飛佐助』を馬鹿馬鹿しい小説として認識しました。でも、これが売れた原因です。

 つまり、言い方は悪いですけど、読者というのは自分より「馬鹿」だと思える作品なり個人にお金を払います。これは、アイドルが「知りませーん」と敢えて無知を装ったり、お笑い芸人が敢えて馬鹿馬鹿しい発言をするのと一緒です。

 ところが、作家志望というのは概ね読書家から出てくるものですから、その大多数は自分が「頭が良い」とか「文章が分かっている」と心の底から信じているわけです。これは編集も一緒。そして、多読家は概ね既存文体の使いどころに関しては、非常によく分かっています。ただし、文章が上手いかというと、そういうわけではありません。

 残酷ですけれど、そもそも小説の執筆とは無関係に、情景描写を「書く」練習などをしていない限り、文章なんて絶対に上手くなったりはしないんですよ。でも、プロもアマも含めて、そういう練習をしている人は、ほとんど見たことがありません。これは、ライトノベルだけじゃなくて純文学でも一緒です。音楽にたとえるのであれば、小説を書きながら文章が上達するというのは、作曲をしながら楽器の演奏をするのと一緒で、文章力の向上という点ではあまり効率的じゃないわけです。

 それでも、まがりなりにも小説が商業の分野で成立しているのは、先ほどの原則が娯楽小説に働いているからです。すなわち、結果として出来上がってきた作品が、誰が見ても「荒唐無稽」で面白ければ、読者は文章力などほとんど問いません。つまり「この小説は矛盾だらけだなぁ。馬鹿馬鹿しい。でも、買っておこうか」という風にお金を払っちゃうわけです。

 ただし、こういう小説を狙って書いても、大半は読者の心に届きません。何故なら、ほとんどのケースで、作者なり編集者なりが「読者を小馬鹿にして書いている」ことが文章なり構成なりを通じて読者に伝わってしまうからです。

 こうなると、娯楽としての小説を書く手法は2つに絞られます。1つは読者サービスが旺盛で、とにかく「面白さ」を追求していった結果として底が抜けてしまうタイプ。これは、先述の山田阿鉄が代表でしょう。もう1つは、自分が天才だと思っているが、実は相当に頭が悪いタイプ。このタイプの作家が小説を書くと、本人は真剣に訴えているつもりでも、完成物は……ということになります。この代表は、あまりにも多すぎて選ぶのが難しいのですが、無難なところで島田清次郎を挙げておきます。

 いずれにせよ、こうした「荒唐無稽」を売りにした小説は、遅かれ早かれインフレーションの壁にぶち当たります。つまり、最初は「なんじゃこりゃ! 馬鹿馬鹿しい!」と思っていた読者も、同じプロットやシチュエーションが繰り返されると慣れてきて「またか。もう飽きた」と思ってしまうわけです。これは、すべての小説に当てはまる原則ですが、馬鹿馬鹿しさの一点豪華主義で勝負に出る娯楽小説では、よりこの傾向が強く出ます。要するに、読者に飽きられやすい形式なんですね。くだんの山田阿鉄も、この原則から逃れることができず、立川文庫の売り上げ低迷と共に作家を廃業し、作家になる前に志していた歯科医に転職しています。

(2)は近代日本文学を特徴づける要素で、簡単に説明すると「高学歴のエリート男性が、いかにして自己の人格形成を行うか?」という過程を補佐する意味合いがあります。日本における学習は、近代化=西欧化の過程で実学重視、人文科学(哲学)軽視という価値観体系を採用し続けた結果、小説(文学)の社会的地位を低く扱いつつも、青少年期の人格形成を小説を読むことを通じて身につける、という奇妙な風習が戦後のある時期まで続きました。

 何でこんなものが必要だったのかというと、これは封建制度という身分制度が崩壊した結果、強い他者承認が期待できなくなったため、自己承認をする必要に迫られたからです。もっと分かり易い言い方をすると「自分らしい生き方」とか「人はどう生きるべきか?」という人生指南書みたいなもんですかね? とにかく、そういうものを教養と呼んでいたわけです(後述)。

 こうした目的のために書かれる小説は、当然の事ながら主人公は青少年期の男性で、厳しい現実に直面したり、挫折を経験したり、恋愛を含む人間関係で悩んだり、そしてそのたびに大仰な内心の吐露が行われたり、わざと冷静さを装って淡々と内心を語ってみたり、哲学的抽象概念を延々と弄んだりするという共通のスタイルを備えるようになります。

 そして、このようなスタイルを支えていたのがロマン主義的な文学技法でした。何しろ、大切なのは小説を「読む」行為を通じて自己の人格形成を果たすことですから、とにもかくにも主人公が苦悩して挫折して感情を吐露してくれなければお話にならないワケです。

 こうした小説の元ネタはドイツで、ビルドゥングスロマン(Bildungsroman)と呼ばれていました。Bildungは教育を意味するドイツ語ですが、語源が英語のビルディングbuildingと同一であることからも分かるように、「自分自身を構築(建築)する」=教養、教育という意味だと解釈して下さい。これをもう少し柔らかい感じの日本語に直すと、自己形成=自分はどう生きるべきか、となるわけです。

 ビルドゥングスロマンは日本ではそのものズバリ教養小説と呼ばれます。でも、大事なのは本場ドイツでも「ロマン」と呼ばれていた点です。また、青少年の「男子」が自己形成のために「苦悩」しつつ「成長」、あるいは「挫折」するというフォーマットも重要です。マンガも含めて、このフォーマットが青少年向けの娯楽作品に於いて、飽きるほど繰り返し使用されたことは、ここで改めて述べる必要すらないでしょう。つまり、日本では文学の一種である教養小説と、少年の成長を描いた娯楽小説は共通フォーマットを用いているため、どちらも同じ読者が小説として等価に楽しめるという現象が発生するわけです。

 余談になりますが、この文章を書くちょっと前に知人から「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」(ゲーテの小説で、ビルドゥングスロマンの原型と考えられている)はラノベに応用できるんじゃないかという話をされたんですが、これは非常に鋭い指摘で、多分ラノベだけでなく少年漫画にも青年マンガにも応用可能だと思います。

 娯楽小説の編集を行う際に、編集者がビルドゥングスロマンのフォーマットを利用して作られた作品を、担当している文庫、ないしは新書全体にどの程度含ませるかによって、レーベルのカラーが決定されます。ビルドゥングスロマンのフォーマット比率が高ければ高いほどよく言えば手堅く、悪く言えば保守的なカラーを持つレーベルとなり、その反対に、比率を下げる、あるいは全く使わないという編集方針で臨んだレーベルは、よく言えば実験的、悪く言えば安定しない(作品の内容、及びに売り上げも込みで)作品が多数を占めることになります。

 ただし、こうした方向性が戦略的に決められる例は希で、私が知る限りレーベルの主導的な立場にある編集者の好みが比率を決定します。

 また、ビルドゥングスロマンで重要視されるのは内心の吐露部分であるため、このタイプの小説は情景描写よりも内心描写が優れていることが重視されます。これは、内心や心情の描写が優れていれば、情景描写に多少の矛盾があっても許すという価値観に繋がり、結果として(1)で説明した娯楽小説における文章力のつたなさを正当化する理由として頻繁に用いられます。たとえば、「この作家の文章は稚拙だが、主人公の感情がよく伝わってくる」なんて説明があったら、その説明をしている人間は、このタイプの小説に弱いと考えて間違いありません。

Appendix

プロフィール

toriyamazine

Author:toriyamazine
東京都出身。
高校在学中にライターとしてデビュー。
以降は編集者・ライター・ゲームディレクター・実写アダルトDVDの監督、そして作家を兼任。
仕事はSMポルノ関係全般で、小説、ゲーム、実写etc、アニメーションを除くすべてのポルノ作品を平行して制作。年間発表数は約6作品前後がコンスタント。
一般作に関しては、別名義、もしくはアンカーマンとしてのみ参加中。

追記・最近になってメールで連絡が取れないという非難が多く聞かれるようになったので、仕事用のアドレスを公開しておきます。
sacs★sanwa-pub.com
です。★マークを@に変えて使ってね。

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