王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
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文章の善し悪しをジャッジする基準・完結編4
- ジャンル : 日記
- スレッドテーマ : ひとりごとのようなもの
テーマ演繹法の4つめの利点として、キャラクターチェンジが容易に可能であるということが挙げられます。たとえば、先ほどの恋愛をテーマに演繹した作品の場合、ヒロインが大人しくて引っ込み思案な性格か、明るくて積極的な性格か、ツンデレかヤンデレかで、同じ恋愛を演繹した作品でもテイストがかなり変わってくるはずです。
このような、「キャラクターを入れ替えることで、作品のテイストを変えていく」という調整を積極的に行えるのは、テーマ演繹法がテーマによってキャラクターを特定のポジションに「配置」するという手法を用いているからです。つまり、Aという個性を持ったキャラクターだろうが、Bという個性を持ったキャラクターだろうが、ストーリー展開上で「こういう動きをすること」というお約束が「配置」によって(ある程度)決まっているので、キャラクターを変えてもストーリー上の大きな流れに影響を及ぼさない(あるいは、及ぼしてしまった場合はテーマが破綻する)わけです。
これは一種の運命論のようなもので、テーマ演繹法を徹底させた作品というのは、次から次へとまるでそれが必然だったかのようにストーリーが展開されるため、メカニカルというか、オートマチックというか、無駄を感じさせない機能美的な快感があります。
が、ここからが不条理なんですが、テーマ演繹法で作られた作品というのは、概ね面白くありません。理由は簡単で、読者もテーマからストーリーを演繹できるからです。つまり、かなりあっさり先読みが効いてしまうんですね。これじゃ、読者はドキドキワクワク感を味わえない=サスペンス軸が消失しているわけで、気の抜けたビールを飲まされているのと同じです。
実際問題として、恐らく近代日本の最初期に登場したテーマ小説群である、政治小説の大半は読むに値しない作品でした。現在では数少ない評価対象とされる『雪中梅』(1886年)も、決して出来の良い作品というわけではありません。
ところが、後代になって同じ流れで出現した『大菩薩峠』(1913年)になると、これが結構イケます。少なくとも、最初期の政治小説よりはずっと娯楽性が高まっています。ただし、『大菩薩峠』を日本最初期の大衆小説と評価するのは(先述の『猿飛佐助』が1911年の作ですから)嘘でしょう。
作者の中里介山がバリバリの政治活動家であったことを考えると、『大菩薩峠』は奇跡的な作品です。これは介山の政治活動の結果や方向性によって、ユートピア小説になったり、原始農耕社会礼賛になったりと、作品の内容がダッチロールするという特異性のせいで、テーマ小説の割には途中からテーマが変更になる(ために、展開が読みづらい)という反則技も絡んでいるんですが、決定的だったのは介山に講談倶楽部での執筆経験があり、舞台設定を幕末にしたからでしょう。
さて、ここでようやく
猿飛佐助→戦国時代
大菩薩峠→幕末
という風に、日本の娯楽小説で扱われる機会の多い歴史的な舞台が出てきます。これに吉川英治版の『三国志』(執筆は1939年だが、単行本発売は1948年)を加えれば、日本の娯楽小説における三大歴史舞台が揃うことになります。余談になりますが、吉川は先述の『講談倶楽部』の出身で、後の講談社を牽引する雑誌となる『キング』の看板作家でもありました。そして、中山も吉川も、戦前のテーマ小説作家のフィクサーとでも言うべき存在である、菊池寛と親交がありました。この辺に関しての事情は、本稿よりも『出版社不運録〜春陽堂書店を中心に』に詳しいので、こちらを読まれるのがよいかと思われます。ちなみに、こちらでは司馬遼太郎と菊池寛をテーマ作家として扱っていますが、文芸書評として優れた内容なので、正直言うと先に書かれちゃって僕は悔しいよ。
で、ですね。ここにテーマ小説を面白く書くためのヒントがあります。要するに、最初から面白いこと、あるいは人気があることが判っている歴史的事実を扱ってしまえばいいわけです。
こういう条件下では、テーマ演繹法は最大限の効果を発揮します。多数の記録が残っている歴史的な事実を下敷きに小説を書く場合、これは一からの創作と言うよりも一種の剪定作業になります。つまり、多数の記録の中からテーマに合わせて都合の良い事実をピックアップして、これを組み合わせることで小説にすることができるんですね。
もちろん、この方法にはもの凄い欠陥があります。それは、読者にとって「ストーリーのオチが最初から分かっている」というものです。つまり、歴史的事実を知っていれば、テーマ演繹法を用いる必要すらなく小説の展開は予想できてしまうわけで、先読みが効いてしまうという欠点は解消されないんですね。
にもかかわらず、現在でもテーマ小説に対する需要というのは存在します。じゃあ、何で面白くもない小説に金を払う読者が一定数以上いるかといえば、繰り返しになりますが、これは「物語に面白さ(この場合の面白さはサスペンス軸)を求めない」人間がいるからです。
たとえば、私の知り合いのA君なんかが典型ですが、彼は三国志マニアでとにかく三国志の小説を片っ端から揃えているわけです。彼はマニアですから、三国志がどんな展開をするのかを熟知しているにもかかわらず、やっぱり新作が出ると読んでしまう。
じゃあ、何で彼が筋書きの分かっている小説を楽しめるかと言えば、繰り返しになってしまいますが、これは彼が物語にサスペンス軸を求めていないからです。「この先どうなっちゃうんだろう? ドキドキ」という感覚を物語に求めなければ、オチが分かっていても作品は楽しめるってことです。
では、何で物語にサスペンス軸が必要ないのかと言えば、これは現実世界の認識が、最初に述べたタイプの娯楽を好むタイプの人達と異なるからです。
ここで、現実逃避の話に戻りましょう。つまり、現実とは何だ? ということです。娯楽と現実の関係は、極言すると「現実にないもの」を娯楽に求めることになりますから、現実をどう捕らえるかによって、娯楽のあり方そのものが変化します。つまり、
タイプA・現実を怠惰で平凡なものと認識している。
と思っている人にとって、娯楽とは「ワクワクドキドキの非日常を体験させてくれる世界」になりますが、
タイプB・現実を不確定要素が多く、一歩間違えれば即破滅。危険が一杯でとても気が抜けないと認識している。
人にとって、娯楽とは「未来が確定されていることが望ましい」となります。
余談になりますが、タイプBの変形に、
タイプC・現実と幻想の区別は曖昧である。
と思っている人がいます。岸田秀の唯幻論なんかは典型ですね。このタイプの読者の好む娯楽は、必ず「幻想に現実が溶解してしまう」という内容になります。決して、逆じゃないというのがミソで、個人的にはいつも「何だよ、ちゃんと区別がついてるじゃないか」と思ってしまうわけです。だって、本当に現実と幻想の区別がつかないなら、現実が幻想を飲み込んでしまう(厳しい現実が、主人公の妄想を粉砕してしまう)作品も喜んで読むはずですからね。嘘つきめ。
話を戻しましょう。タイプAについては猿飛佐助の項目で既に説明したので、ここではタイプB、タイプCについて解説していきましょう。タイプBとは、端的に言えば水戸黄門が好きな人達です。昔、知り合いが菅原文太の『トラック野郎』シリーズを、複数のビデオデッキとモニターで同時に流すという実験をやっていて、別の作品であるにもかかわらず、ほぼ同じ時間に乱闘が起こったりトイレに駆け込むシーンがあったりして驚愕したものですが、これも同系統の作品といえます。
運命論というか、事件が起こるタイミングから、解決するプロセスまで一緒なのは、視聴者(読者)に安心感をもたらすと同時に「馬鹿馬鹿しいなぁ」という気持ちも起こさせます。実際に『トラック野郎』の監督である鈴木則文は、この馬鹿馬鹿しさを狙った映画制作を行っており、ウィキペディアによると、
「俺は照明をまんべんなく当てて影を作らないんだ。その方がバカに見えるだろ?」「ピントは奥まで全部合わせるんだ。そうすると画面に奥行きがなくてバカに見えるだろ?」
という発言をしているそうです。さすが日本を代表する天才監督ですが、悲しいかな文芸の世界ではそこまで分かっている人間はほぼいません。鈴木監督の説明を借りるなら、「影を作らないこと」や「ピントを奥まで全部合わせること」を本気で良いと信じている人達が多くて辟易します。
ここから調子を厳しくして書きますけど、テーマ小説を書いている作家に文章の上手い人は1人もいません。これは、現実と幻想の区分が曖昧なタイプの小説、いわゆる幻想小説を書く作家も一緒です。じゃあ、何で駄文が許されているかというと、この手の作品を好む読者の大半が、小説を「とばし読み」しているからです。
とばし読みは、速読と言い換えても構いません。というよりも、とばし読みの技術を体系化したものが速読でしょう。とばし読みや速読で重要なのは、キーワードとなる単語を効率よく拾っていく行為で、文末などはおおむね読み飛ばしますから、細かい文章上のディティールは問われません。しかも、とばし読みをする際には、テーマ小説のように演繹的にストーリーが決まっていれば、先の展開を予想することが楽というメリットもあるので、多読家になればなるほどテーマ性が前面に押し出された文章を読みたがる傾向があります。
すると、こういう現象が発生します。まず、あるテーマ小説のジャンルが商業的に成立するとします。これは現代では、SFだったり、ファンタジーだったり、推理(ハードボイルド)だったり、恋愛(ポルノ)だったり、歴史だったりと、まあ、概ねこの5つなんですが、とにかく商業的に一定以上の売り上げを上げて、市場に定着したとしましょう。すると、後から出てきた作品群の大部分は、前のアイデアと文体を模倣をするので定型化が進行します。要するに、テーマ演繹法による創作を行う限り、使用単語やストーリー展開に極度のパターン化が進行し、誰が見ても次の展開が予想可能な様式化された作品群が出てきます。
この段階で読者の質に変化が生じます。すなわち、とばし読み系の読者が主軸を成すことになります。特にとばし読みが恒常化しており、かつ現実認識がタイプBの人達がコアな読者層となります。当然のことながら、これでは新しい読者を獲得することは難しいので、この段階で発表される作品にも外見上の変化が起こります。それはジャンルの融解という形、たとえば推理小説とSFの融合という形(クロスオーバー)で目に見えるようになります。
ところが、文章創作における本質、すなわち文章技術における革新が起きているわけではないので、やはり定型化の進行は避けられません。そうなると、最終的に「馬鹿馬鹿しい」という印象は避けがたいものになります。だったら、最初から馬鹿馬鹿しい話を作ってしまえということになるので、ジャンルそのものが溶解した跡地にコメディ、ギャグ、パロディといった「軽い」作品群が林立するようになります。
こういったものは、通常は技術精度が低いアマチュア、ファンダムから出現し、徐々にプロの作品に浸透していくことになります。理由は簡単で、アマチュアの何パーセントかがプロになるからです。ただし、日本の娯楽に於いて、小説はプロアマの技術格差が非常に少ないジャンルなので、このパロディ化が起きると甚だしいほど強くなる傾向があります。
恐るべきことに、このような問題は紀元前400年前から、既に指摘されていました。アリストテレスの『詩学』です。
このような、「キャラクターを入れ替えることで、作品のテイストを変えていく」という調整を積極的に行えるのは、テーマ演繹法がテーマによってキャラクターを特定のポジションに「配置」するという手法を用いているからです。つまり、Aという個性を持ったキャラクターだろうが、Bという個性を持ったキャラクターだろうが、ストーリー展開上で「こういう動きをすること」というお約束が「配置」によって(ある程度)決まっているので、キャラクターを変えてもストーリー上の大きな流れに影響を及ぼさない(あるいは、及ぼしてしまった場合はテーマが破綻する)わけです。
これは一種の運命論のようなもので、テーマ演繹法を徹底させた作品というのは、次から次へとまるでそれが必然だったかのようにストーリーが展開されるため、メカニカルというか、オートマチックというか、無駄を感じさせない機能美的な快感があります。
が、ここからが不条理なんですが、テーマ演繹法で作られた作品というのは、概ね面白くありません。理由は簡単で、読者もテーマからストーリーを演繹できるからです。つまり、かなりあっさり先読みが効いてしまうんですね。これじゃ、読者はドキドキワクワク感を味わえない=サスペンス軸が消失しているわけで、気の抜けたビールを飲まされているのと同じです。
実際問題として、恐らく近代日本の最初期に登場したテーマ小説群である、政治小説の大半は読むに値しない作品でした。現在では数少ない評価対象とされる『雪中梅』(1886年)も、決して出来の良い作品というわけではありません。
ところが、後代になって同じ流れで出現した『大菩薩峠』(1913年)になると、これが結構イケます。少なくとも、最初期の政治小説よりはずっと娯楽性が高まっています。ただし、『大菩薩峠』を日本最初期の大衆小説と評価するのは(先述の『猿飛佐助』が1911年の作ですから)嘘でしょう。
作者の中里介山がバリバリの政治活動家であったことを考えると、『大菩薩峠』は奇跡的な作品です。これは介山の政治活動の結果や方向性によって、ユートピア小説になったり、原始農耕社会礼賛になったりと、作品の内容がダッチロールするという特異性のせいで、テーマ小説の割には途中からテーマが変更になる(ために、展開が読みづらい)という反則技も絡んでいるんですが、決定的だったのは介山に講談倶楽部での執筆経験があり、舞台設定を幕末にしたからでしょう。
さて、ここでようやく
猿飛佐助→戦国時代
大菩薩峠→幕末
という風に、日本の娯楽小説で扱われる機会の多い歴史的な舞台が出てきます。これに吉川英治版の『三国志』(執筆は1939年だが、単行本発売は1948年)を加えれば、日本の娯楽小説における三大歴史舞台が揃うことになります。余談になりますが、吉川は先述の『講談倶楽部』の出身で、後の講談社を牽引する雑誌となる『キング』の看板作家でもありました。そして、中山も吉川も、戦前のテーマ小説作家のフィクサーとでも言うべき存在である、菊池寛と親交がありました。この辺に関しての事情は、本稿よりも『出版社不運録〜春陽堂書店を中心に』に詳しいので、こちらを読まれるのがよいかと思われます。ちなみに、こちらでは司馬遼太郎と菊池寛をテーマ作家として扱っていますが、文芸書評として優れた内容なので、正直言うと先に書かれちゃって僕は悔しいよ。
で、ですね。ここにテーマ小説を面白く書くためのヒントがあります。要するに、最初から面白いこと、あるいは人気があることが判っている歴史的事実を扱ってしまえばいいわけです。
こういう条件下では、テーマ演繹法は最大限の効果を発揮します。多数の記録が残っている歴史的な事実を下敷きに小説を書く場合、これは一からの創作と言うよりも一種の剪定作業になります。つまり、多数の記録の中からテーマに合わせて都合の良い事実をピックアップして、これを組み合わせることで小説にすることができるんですね。
もちろん、この方法にはもの凄い欠陥があります。それは、読者にとって「ストーリーのオチが最初から分かっている」というものです。つまり、歴史的事実を知っていれば、テーマ演繹法を用いる必要すらなく小説の展開は予想できてしまうわけで、先読みが効いてしまうという欠点は解消されないんですね。
にもかかわらず、現在でもテーマ小説に対する需要というのは存在します。じゃあ、何で面白くもない小説に金を払う読者が一定数以上いるかといえば、繰り返しになりますが、これは「物語に面白さ(この場合の面白さはサスペンス軸)を求めない」人間がいるからです。
たとえば、私の知り合いのA君なんかが典型ですが、彼は三国志マニアでとにかく三国志の小説を片っ端から揃えているわけです。彼はマニアですから、三国志がどんな展開をするのかを熟知しているにもかかわらず、やっぱり新作が出ると読んでしまう。
じゃあ、何で彼が筋書きの分かっている小説を楽しめるかと言えば、繰り返しになってしまいますが、これは彼が物語にサスペンス軸を求めていないからです。「この先どうなっちゃうんだろう? ドキドキ」という感覚を物語に求めなければ、オチが分かっていても作品は楽しめるってことです。
では、何で物語にサスペンス軸が必要ないのかと言えば、これは現実世界の認識が、最初に述べたタイプの娯楽を好むタイプの人達と異なるからです。
ここで、現実逃避の話に戻りましょう。つまり、現実とは何だ? ということです。娯楽と現実の関係は、極言すると「現実にないもの」を娯楽に求めることになりますから、現実をどう捕らえるかによって、娯楽のあり方そのものが変化します。つまり、
タイプA・現実を怠惰で平凡なものと認識している。
と思っている人にとって、娯楽とは「ワクワクドキドキの非日常を体験させてくれる世界」になりますが、
タイプB・現実を不確定要素が多く、一歩間違えれば即破滅。危険が一杯でとても気が抜けないと認識している。
人にとって、娯楽とは「未来が確定されていることが望ましい」となります。
余談になりますが、タイプBの変形に、
タイプC・現実と幻想の区別は曖昧である。
と思っている人がいます。岸田秀の唯幻論なんかは典型ですね。このタイプの読者の好む娯楽は、必ず「幻想に現実が溶解してしまう」という内容になります。決して、逆じゃないというのがミソで、個人的にはいつも「何だよ、ちゃんと区別がついてるじゃないか」と思ってしまうわけです。だって、本当に現実と幻想の区別がつかないなら、現実が幻想を飲み込んでしまう(厳しい現実が、主人公の妄想を粉砕してしまう)作品も喜んで読むはずですからね。嘘つきめ。
話を戻しましょう。タイプAについては猿飛佐助の項目で既に説明したので、ここではタイプB、タイプCについて解説していきましょう。タイプBとは、端的に言えば水戸黄門が好きな人達です。昔、知り合いが菅原文太の『トラック野郎』シリーズを、複数のビデオデッキとモニターで同時に流すという実験をやっていて、別の作品であるにもかかわらず、ほぼ同じ時間に乱闘が起こったりトイレに駆け込むシーンがあったりして驚愕したものですが、これも同系統の作品といえます。
運命論というか、事件が起こるタイミングから、解決するプロセスまで一緒なのは、視聴者(読者)に安心感をもたらすと同時に「馬鹿馬鹿しいなぁ」という気持ちも起こさせます。実際に『トラック野郎』の監督である鈴木則文は、この馬鹿馬鹿しさを狙った映画制作を行っており、ウィキペディアによると、
「俺は照明をまんべんなく当てて影を作らないんだ。その方がバカに見えるだろ?」「ピントは奥まで全部合わせるんだ。そうすると画面に奥行きがなくてバカに見えるだろ?」
という発言をしているそうです。さすが日本を代表する天才監督ですが、悲しいかな文芸の世界ではそこまで分かっている人間はほぼいません。鈴木監督の説明を借りるなら、「影を作らないこと」や「ピントを奥まで全部合わせること」を本気で良いと信じている人達が多くて辟易します。
ここから調子を厳しくして書きますけど、テーマ小説を書いている作家に文章の上手い人は1人もいません。これは、現実と幻想の区分が曖昧なタイプの小説、いわゆる幻想小説を書く作家も一緒です。じゃあ、何で駄文が許されているかというと、この手の作品を好む読者の大半が、小説を「とばし読み」しているからです。
とばし読みは、速読と言い換えても構いません。というよりも、とばし読みの技術を体系化したものが速読でしょう。とばし読みや速読で重要なのは、キーワードとなる単語を効率よく拾っていく行為で、文末などはおおむね読み飛ばしますから、細かい文章上のディティールは問われません。しかも、とばし読みをする際には、テーマ小説のように演繹的にストーリーが決まっていれば、先の展開を予想することが楽というメリットもあるので、多読家になればなるほどテーマ性が前面に押し出された文章を読みたがる傾向があります。
すると、こういう現象が発生します。まず、あるテーマ小説のジャンルが商業的に成立するとします。これは現代では、SFだったり、ファンタジーだったり、推理(ハードボイルド)だったり、恋愛(ポルノ)だったり、歴史だったりと、まあ、概ねこの5つなんですが、とにかく商業的に一定以上の売り上げを上げて、市場に定着したとしましょう。すると、後から出てきた作品群の大部分は、前のアイデアと文体を模倣をするので定型化が進行します。要するに、テーマ演繹法による創作を行う限り、使用単語やストーリー展開に極度のパターン化が進行し、誰が見ても次の展開が予想可能な様式化された作品群が出てきます。
この段階で読者の質に変化が生じます。すなわち、とばし読み系の読者が主軸を成すことになります。特にとばし読みが恒常化しており、かつ現実認識がタイプBの人達がコアな読者層となります。当然のことながら、これでは新しい読者を獲得することは難しいので、この段階で発表される作品にも外見上の変化が起こります。それはジャンルの融解という形、たとえば推理小説とSFの融合という形(クロスオーバー)で目に見えるようになります。
ところが、文章創作における本質、すなわち文章技術における革新が起きているわけではないので、やはり定型化の進行は避けられません。そうなると、最終的に「馬鹿馬鹿しい」という印象は避けがたいものになります。だったら、最初から馬鹿馬鹿しい話を作ってしまえということになるので、ジャンルそのものが溶解した跡地にコメディ、ギャグ、パロディといった「軽い」作品群が林立するようになります。
こういったものは、通常は技術精度が低いアマチュア、ファンダムから出現し、徐々にプロの作品に浸透していくことになります。理由は簡単で、アマチュアの何パーセントかがプロになるからです。ただし、日本の娯楽に於いて、小説はプロアマの技術格差が非常に少ないジャンルなので、このパロディ化が起きると甚だしいほど強くなる傾向があります。
恐るべきことに、このような問題は紀元前400年前から、既に指摘されていました。アリストテレスの『詩学』です。
えー、更新が空いてしまってすみません。
ぶっちゃけ、前々回の日記にも書いたとおり、プライベートでの大転換が継続しており、ちょっとネットでの活動は無理とまでは言わないんですが、かなり厳しい状況になっております。
で、その間にも規制推進派の皆さんは鋭意活動中なわけでして「こっちが忙しい時期に、何もわざわざ……」と思わないでもないんですが、あちらも寄付金なり名声値なり、嫌いなものの社会的排除なりがかかっているんで、ちっとも手を緩めてくれそうにありません。
最初のアクションは、先月の10月27日に出てきた自民党の『児童ポルノ禁止法改正案』再提出の動きで、現在の自民党の総裁がユニセフ議蓮の会長である谷垣禎一であることを考えると避けられない事態だったわけですが、正直言って私が予想していたよりもずっと早い動きでした。
ただし、法案の内容は選挙前と変わらず、このままじゃ民主党案と平行線を辿るのはほぼ疑いようが無かったので、これに関してはあまり気にしてもいませんでした。実際に、自民党内で法案内容が以前と変わらない点に対する異論が出たため、同月29日には結論が先送りになっているわけです。
11月5日の保坂展人氏のブログによると、この時に自民党内で異論を差し挟んだのは塩崎恭久だそうですが、問題はここから。このブログで保坂氏が言及していたのが、法務大臣で民主党の千葉景子議員と新聞記者による質疑応答で、以下のようなものでした。
Q:昨日,自民党の部会でも児童ポルノ法改正の再提出が協議をされたわけですけれども,児童ポルノを巡る現状と,どのような法改正が必要かとか,お考えをお聞かせください。
A:新しい内閣がスタートする前に,国会でかなり議論が進みまして,ほぼ共通な,与野党の協議もほぼまとまったというところまでいっていると承知をしています。それからこの問題については,大変多くの皆さんが心配をなさって,成立を何とか図るべきという声も大変大きくありますので,国会のこれまでの議論の進んできたそういう経緯も踏まえながら,私もできるだけどういう形でそれをまとめていくのが良いか,真剣に考えていきたいと思っています。
Q:自民党の方は単純所持の規制,これをやはり改めて訴えたいと,求めたいという内容でして,民主党の方は,取得したときの取得罪というのを設けていまして,ちょっとその辺の違いがあったのですが,改めて大臣の単純所持規制についてのお考えをお聞かせ下さい。
A:最終的な取りまとめの過程で両者の意見がかなり煮詰まって,一定の方向にいきつつあったと思いますので,ここは所持,取得,それの事実的な合意点というのが見い出せるのではないだろうかなとは思っています。
Q:単純所持禁止に反対というか,問題ありとされていたかと思うのですが。
A:よくよく考えてみますと所持に至るところをどうみるかということであって,まったく所持していることを絶対もうだめと言うのでもなし,あるいは,所持は処罰はできないのだというのではなくて,そこにどうやって所持に至ったのかというところがやはりある意味では問題だったのだと思います。そこはだいぶ煮詰まっていると思いますので,是非これはまとめることができるように私もどういう形が一番良いのか考えていきたいと思います。
この質疑応答は、自民党が改正案を先送りにした翌日、つまり10月30日に行われたものですが、千葉議員の主張が基本的に以前とほぼ変わっていないにもかかわらず、規制反対派の一部が衝撃を受けるという事態を引き起こしました。
その原因に関しては謎です。この質疑応答が行われる約1ヶ月前の9月26日に私が指摘していることですが、千葉議員は2000年に「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」を提出した関係から、従軍慰安婦問題から横滑りしてきた児童ポルノ規制推進派と何らかのコネクションがある可能性が高く、人脈的には規制派の人です。当然のことながら、彼女の基本スタンスは、実在する児童を用いたポルノに関して規制すべきというもので、単純所持規制は「あり」という考えでしょう。
ただし、冤罪事件を防止するための措置を法律上で明文化すべきというスタンスでもあるため「(児童ポルノの)所持に至るところをどうみるか」を重視すると明言しているわけです。ぶっちゃけ、千葉議員の発言を読んでいる限り、自民党側が民主党案に鞍替えせよと言っているようにしか思えません。
千葉議員のスタンスに関しては、今年の3月11日に書いた私の日記で確認可能です。当時の新聞記事をもう一度抜粋しておくと、
「児童買春・児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律の一部を改正する法律案」については、法案担当者の千葉景子参院議員が説明。現行法ではあいまいな児童ポルノの定義の明確化、児童ポルノ取得罪の新設、罰則の法定刑引き上げ、被害児童の保護に関する制度の充実・強化などを柱とする法案内容を了承した。いわゆる「単純保持」については、正当な理由なく、有償または2回以上の取得をした者に対して罰則を設けられることとし、提供目的以外の児童ポルノ所持についても、実質的に処罰範囲に含まれることとなる。
となり、民主党の「取得罪」をまとめていた法案担当者が千葉議員であることが分かります。
で、この当時の日記でも書いていますし、2008年の3月14日の日記でも指摘していますが、冤罪を盾に規制反対運動をしてもストッピングパワーが弱いよ、という話は私が散々しているわけです。敢えてキツイ言い方になりますが、今の状況の一因は規制反対運動の主力が冤罪事件防止を声高に掲げたことにもあるわけで、これは、もう自業自得だと思ってもらうしかありません。全部じゃないけどね。
つまり、自民党が民主案を呑むなら、保坂氏が危惧するように、与野党合意=法務委員長提案(国会での議論なし)で児童ポルノ禁止法の改正案が成立する可能性は大いにあると思います。少なくとも、千葉議員はそれほど躊躇しないでしょう。この辺はコメント欄でときさんが仰っているとおりだと思います。
ということは、今回の改正案のキーパーソンは千葉議員ではなく、民主党案とのすりあわせを主張している、自民党の塩崎議員ということになります。千葉議員に意見を変える気がそれほどないのは質疑応答からも明らかですから、後は野党となった自民党が、公明党との共同案を採るか、民主党案に鞍替えするかという2択を迫られているということです。
来年の参院選で、自民党が公明党の、すなわち創価学会の票を当てにしているのであれば、民主党案を自民党が丸飲みするという可能性は限りなく低いと見て良いでしょう。しかし、自民党が創価学会の票を必要としないというのであれば、民主党案の「取得罪」が目出度く成立、というシミュレーションでそれほど間違っていないと思われます。
じゃあ、このような状況下で規制反対派がどのような活動を採るべきかなんですが、民主党支持層が千葉議員に「冤罪の危険性」を重ねて働きかけ、その一方で自民党支持層が民主案を丸飲みしないように、谷垣議員へと働きかけるという方法が考えられます。
ただし、これは繰り返しになりますが、あくまでも延命措置でしかありません。繰り返しになりますが、取得罪も含む単純所持は、自民か民主のどちらかがもう片方の法案を呑んだ段階で、スムースに成立します。
ここでにわかに注目されるのが、コメント欄で落ち着いてしかし迅速にさんが指摘しているように、民主党の石関貴史議員のブログで、11月4日に規制推進派のアグネス・チャンから陳情を受けたと書いてあります
これもnazo-さんがコメント欄で指摘されていますが、法務委員長提案で児童ポルノの改正案が成立する前段階で、与野党の筆頭理事が法案のすりあわせを行うのが慣例になっているため、民主党側の筆頭理事である石関議員をロビイングの対象としたのでしょう。
しかし、この石関議員は『慰安婦問題と南京事件の真実を検証する会』のメンバーで、千葉議員と異なり規制推進派の諸団体の母体とは政治的な主張が真っ向から対立しています。
ですから、石関議員に対しては、規制推進派のメンバーが従軍慰安婦問題からのスライド組であること、規制推進派の母体となっているキリスト教婦人矯風会などVAWW-NETジャパンと関係の深いメンバーが多数在籍していること、そしてAPPなどの極左系団体が天皇制をレイプと同一視していることなどを指摘することが重要でしょう。こうすれば、創価学会とべったり、極左団体とべったりなアグネスの知名度の高さは簡単に相殺できます。
アグネスタイプのロビイストに関しては、著作権延長問題の際に松本零士を筆頭とする有名漫画家や作家先生の類が著作権延長を訴えても、ほとんどの人が首をかしげていたという経緯から、オタク系の人達はその効果を疑ってしかるべきなんですが、どうも規制反対派には「有名になりたい」という強い願望を持つ人が多いようで、有名人が出てくるたびに自分の願望を刺激されてパニックになる悪い傾向があります。この辺に関しては「もういい加減に有名になりたがるの諦めろ」とだけ言っておきます。というか、児童ポルノ問題で有名に鳴りたがる理由が分からない。ぶっちゃけ、私なんかはポルノ関係者だから我慢できるけど、普通に公務員とか会社員で働いている人は、これで有名になったらほぼニアイコールで社会的制裁ですぜ。
(続く)
ぶっちゃけ、前々回の日記にも書いたとおり、プライベートでの大転換が継続しており、ちょっとネットでの活動は無理とまでは言わないんですが、かなり厳しい状況になっております。
で、その間にも規制推進派の皆さんは鋭意活動中なわけでして「こっちが忙しい時期に、何もわざわざ……」と思わないでもないんですが、あちらも寄付金なり名声値なり、嫌いなものの社会的排除なりがかかっているんで、ちっとも手を緩めてくれそうにありません。
最初のアクションは、先月の10月27日に出てきた自民党の『児童ポルノ禁止法改正案』再提出の動きで、現在の自民党の総裁がユニセフ議蓮の会長である谷垣禎一であることを考えると避けられない事態だったわけですが、正直言って私が予想していたよりもずっと早い動きでした。
ただし、法案の内容は選挙前と変わらず、このままじゃ民主党案と平行線を辿るのはほぼ疑いようが無かったので、これに関してはあまり気にしてもいませんでした。実際に、自民党内で法案内容が以前と変わらない点に対する異論が出たため、同月29日には結論が先送りになっているわけです。
11月5日の保坂展人氏のブログによると、この時に自民党内で異論を差し挟んだのは塩崎恭久だそうですが、問題はここから。このブログで保坂氏が言及していたのが、法務大臣で民主党の千葉景子議員と新聞記者による質疑応答で、以下のようなものでした。
Q:昨日,自民党の部会でも児童ポルノ法改正の再提出が協議をされたわけですけれども,児童ポルノを巡る現状と,どのような法改正が必要かとか,お考えをお聞かせください。
A:新しい内閣がスタートする前に,国会でかなり議論が進みまして,ほぼ共通な,与野党の協議もほぼまとまったというところまでいっていると承知をしています。それからこの問題については,大変多くの皆さんが心配をなさって,成立を何とか図るべきという声も大変大きくありますので,国会のこれまでの議論の進んできたそういう経緯も踏まえながら,私もできるだけどういう形でそれをまとめていくのが良いか,真剣に考えていきたいと思っています。
Q:自民党の方は単純所持の規制,これをやはり改めて訴えたいと,求めたいという内容でして,民主党の方は,取得したときの取得罪というのを設けていまして,ちょっとその辺の違いがあったのですが,改めて大臣の単純所持規制についてのお考えをお聞かせ下さい。
A:最終的な取りまとめの過程で両者の意見がかなり煮詰まって,一定の方向にいきつつあったと思いますので,ここは所持,取得,それの事実的な合意点というのが見い出せるのではないだろうかなとは思っています。
Q:単純所持禁止に反対というか,問題ありとされていたかと思うのですが。
A:よくよく考えてみますと所持に至るところをどうみるかということであって,まったく所持していることを絶対もうだめと言うのでもなし,あるいは,所持は処罰はできないのだというのではなくて,そこにどうやって所持に至ったのかというところがやはりある意味では問題だったのだと思います。そこはだいぶ煮詰まっていると思いますので,是非これはまとめることができるように私もどういう形が一番良いのか考えていきたいと思います。
この質疑応答は、自民党が改正案を先送りにした翌日、つまり10月30日に行われたものですが、千葉議員の主張が基本的に以前とほぼ変わっていないにもかかわらず、規制反対派の一部が衝撃を受けるという事態を引き起こしました。
その原因に関しては謎です。この質疑応答が行われる約1ヶ月前の9月26日に私が指摘していることですが、千葉議員は2000年に「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」を提出した関係から、従軍慰安婦問題から横滑りしてきた児童ポルノ規制推進派と何らかのコネクションがある可能性が高く、人脈的には規制派の人です。当然のことながら、彼女の基本スタンスは、実在する児童を用いたポルノに関して規制すべきというもので、単純所持規制は「あり」という考えでしょう。
ただし、冤罪事件を防止するための措置を法律上で明文化すべきというスタンスでもあるため「(児童ポルノの)所持に至るところをどうみるか」を重視すると明言しているわけです。ぶっちゃけ、千葉議員の発言を読んでいる限り、自民党側が民主党案に鞍替えせよと言っているようにしか思えません。
千葉議員のスタンスに関しては、今年の3月11日に書いた私の日記で確認可能です。当時の新聞記事をもう一度抜粋しておくと、
「児童買春・児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律の一部を改正する法律案」については、法案担当者の千葉景子参院議員が説明。現行法ではあいまいな児童ポルノの定義の明確化、児童ポルノ取得罪の新設、罰則の法定刑引き上げ、被害児童の保護に関する制度の充実・強化などを柱とする法案内容を了承した。いわゆる「単純保持」については、正当な理由なく、有償または2回以上の取得をした者に対して罰則を設けられることとし、提供目的以外の児童ポルノ所持についても、実質的に処罰範囲に含まれることとなる。
となり、民主党の「取得罪」をまとめていた法案担当者が千葉議員であることが分かります。
で、この当時の日記でも書いていますし、2008年の3月14日の日記でも指摘していますが、冤罪を盾に規制反対運動をしてもストッピングパワーが弱いよ、という話は私が散々しているわけです。敢えてキツイ言い方になりますが、今の状況の一因は規制反対運動の主力が冤罪事件防止を声高に掲げたことにもあるわけで、これは、もう自業自得だと思ってもらうしかありません。全部じゃないけどね。
つまり、自民党が民主案を呑むなら、保坂氏が危惧するように、与野党合意=法務委員長提案(国会での議論なし)で児童ポルノ禁止法の改正案が成立する可能性は大いにあると思います。少なくとも、千葉議員はそれほど躊躇しないでしょう。この辺はコメント欄でときさんが仰っているとおりだと思います。
ということは、今回の改正案のキーパーソンは千葉議員ではなく、民主党案とのすりあわせを主張している、自民党の塩崎議員ということになります。千葉議員に意見を変える気がそれほどないのは質疑応答からも明らかですから、後は野党となった自民党が、公明党との共同案を採るか、民主党案に鞍替えするかという2択を迫られているということです。
来年の参院選で、自民党が公明党の、すなわち創価学会の票を当てにしているのであれば、民主党案を自民党が丸飲みするという可能性は限りなく低いと見て良いでしょう。しかし、自民党が創価学会の票を必要としないというのであれば、民主党案の「取得罪」が目出度く成立、というシミュレーションでそれほど間違っていないと思われます。
じゃあ、このような状況下で規制反対派がどのような活動を採るべきかなんですが、民主党支持層が千葉議員に「冤罪の危険性」を重ねて働きかけ、その一方で自民党支持層が民主案を丸飲みしないように、谷垣議員へと働きかけるという方法が考えられます。
ただし、これは繰り返しになりますが、あくまでも延命措置でしかありません。繰り返しになりますが、取得罪も含む単純所持は、自民か民主のどちらかがもう片方の法案を呑んだ段階で、スムースに成立します。
ここでにわかに注目されるのが、コメント欄で落ち着いてしかし迅速にさんが指摘しているように、民主党の石関貴史議員のブログで、11月4日に規制推進派のアグネス・チャンから陳情を受けたと書いてあります
これもnazo-さんがコメント欄で指摘されていますが、法務委員長提案で児童ポルノの改正案が成立する前段階で、与野党の筆頭理事が法案のすりあわせを行うのが慣例になっているため、民主党側の筆頭理事である石関議員をロビイングの対象としたのでしょう。
しかし、この石関議員は『慰安婦問題と南京事件の真実を検証する会』のメンバーで、千葉議員と異なり規制推進派の諸団体の母体とは政治的な主張が真っ向から対立しています。
ですから、石関議員に対しては、規制推進派のメンバーが従軍慰安婦問題からのスライド組であること、規制推進派の母体となっているキリスト教婦人矯風会などVAWW-NETジャパンと関係の深いメンバーが多数在籍していること、そしてAPPなどの極左系団体が天皇制をレイプと同一視していることなどを指摘することが重要でしょう。こうすれば、創価学会とべったり、極左団体とべったりなアグネスの知名度の高さは簡単に相殺できます。
アグネスタイプのロビイストに関しては、著作権延長問題の際に松本零士を筆頭とする有名漫画家や作家先生の類が著作権延長を訴えても、ほとんどの人が首をかしげていたという経緯から、オタク系の人達はその効果を疑ってしかるべきなんですが、どうも規制反対派には「有名になりたい」という強い願望を持つ人が多いようで、有名人が出てくるたびに自分の願望を刺激されてパニックになる悪い傾向があります。この辺に関しては「もういい加減に有名になりたがるの諦めろ」とだけ言っておきます。というか、児童ポルノ問題で有名に鳴りたがる理由が分からない。ぶっちゃけ、私なんかはポルノ関係者だから我慢できるけど、普通に公務員とか会社員で働いている人は、これで有名になったらほぼニアイコールで社会的制裁ですぜ。
(続く)
民主党の平智之議員がユニセフ議連の会合に出席し、そこでアグネス・チャンの話を聞いたというブログの記事が、規制反対派内部で話題になっています。以下が記事の抜粋です。
キャンパスに向かう前にユニセフ議連の会合
に参加させてもらいました。衆議院会館にNY
からユニセフの事務局長が来られてお話をされ
るということで参加いたしました。
アグネス・チャンさんのお話しもお聞きしました。
現場に即した素晴らしいお話でした。
議論のなかで、
児童ポルノグラフィの問題をはじめて知りました。
実在する児童の図画は規制できても、コミックス
やゲームという仮想対象の図画は規制しにくい
ので、文書・図画の規制とは別の方法で規制す
ることの可能性を検討しているとのことでした。
で、ですね。あくまで個人的な提案なんですが、平議員への攻撃は控えた方が良いと思います。その理由ですが、この時期の国会議員、特に新人や再選の議員には、地元の利権代表に加えて、有象無象の怪しい「政治活動家」がロビイング攻勢をかけてくるのが通例だからです。つまり、知名度があるとはいえ、アグネス・チャンはこうした「怪しい政治活動家」のワン・オブ・ゼムに過ぎません。もちろん、我々も同様です。
しかし、それでも平議員の意見表明には納得がいかないという方には、民主党支持者限定ですが効果的な方法があります。それは、民主党の石井一議員に平議員の件を報告する、というものです。
何故に平議員本人ではなくて、石井議員なのかというと、
1)石井議員が来年度の参院選の選挙対策委員だから。
2)石井議員は民主党の中でも反公明党の急先鋒とも言える存在だから。
3)石井議員は、民主党内における新人議員の育成担当(?)だから。
です。つまり、創価学会とずるずるべったりで、池田大作を褒め称えること甚だしい、アグネス・チャンの知名度をリバースで使ってしまおう、という目論見なんですね。
メールの文面は以下のようなものが望ましいでしょう。ただし、今回の件はコピペを避けたいので箇条書きにしておきます。文面に関しては、ご自身で作成して下さい。
1)時節の挨拶
2)自分の氏名職業、及びに民主党支持者であることの表明。
3)来年度の参院選でも、民主党を応援したいと思っている旨の表明。
4)ただし、民主党が公明党と連立を組む場合は例外であるという念押し。
5)そこで疑問があると話を切り返す。
6)平議員のブログで、アグネス・チャンの話を聞いたという部分の紹介。
7)アグネス・チャンは創価学会とべったりのタレントで、公明党の為に政治活動をしているという旨を報告。
EX)
●アグネス・チャンが本部幹部会で池田大作を礼賛
・12月7日付「聖教新聞」「山本伸一作詞の曲をアグネス・チャンさんが熱唱」「アグネス・チャンさん『池田先生の平和の行動は世界中の人の力になっています』」
「『池田先生と奥様、並びにアグネス・チャンさんが入場されます!』司会の声に満場の参加者がどよめく。沸き起こる拍手と大歓声。
池田名誉会長とともに、本部幹部会の会場に現れたアグネス・チャンさん。司会の紹介を受け、深々とお辞儀をし、特設ステージに立つ。イントロが流れる。曲は『そこには 幸せが もう生まれているから』。名誉会長が作詞し、アグネスさんが作曲した作品である。
「時に繊細に、時に力強く――心を込めて歌い終えたアグネスさん。大拍手で讃える名誉会長と香峯子夫人。アグネスさんは何度もお辞儀をし、語り始めた。
『池田先生、奥様、そして皆さん、こんにちは!アグネス・チャンです。34年ぶりに先生と再会することができ、今、胸がいっぱいです。もう頭は真っ白です』」
「10月31日、北京の人民大会堂でのコンサートに臨み、名誉会長作詞の曲を含めた歌を高らかに響かせた。
『池田先生は、ずっと平和の活動を続けてこられました。先生の行動は、世界中の人々の力となっています。先生からいただいたポエム(詩)。そこには大切なメッセージがあります。平和の大切さと、戦争の悲しみが込められています』
『先生の歌を歌い広めるのが、私の定めだとも思います。でも私一人の力には限りがあります。皆さんも、この歌をあちこちで歌ってください。先生からいただいたもう一つの曲『ピースフル ワールド!』です!」
「席上、アグネス・チャンさんに『民音文化賞』が贈られた。池田名誉会長が見守る中、原田会長が賞状を読み上げる。
『貴女は永年にわたり美しき歌声で平和への歌を歌い続け 人々の心の中に『幸せの花』を咲かせてこられました また日本ユニセフ協会大使等の重責を務められ あらゆる悲しみをなくすため勇敢に誠実に信念の行動を貫いてこられました』
平和を熱願する名誉会長の詩と、その歌を抱きしめて2度の病を勝ち越えたアグネスさん。満面の笑顔で勝利の歌声を響かせる彼女に、友は新たな平和への前進を誓い合った」
8)新人議員が、公明党のために政治活動をしているタレントに接触し、かつ影響を受けるのはいかがなものかと疑問を提示。
9)締めの言葉(石井議員の活動=反公明党を応援していると激励するのが筋で、政教分離が大事だと主張)。
と、こんな感じです。石井議員のホームページはここで、メールアドレスはここになります。
ただし、繰り返しますけど、あくまでも平議員の対応に納得がいかない人で、かつ民主党支持者限定ですからね。平議員に限らず、今後は民主党の新人議員の何人かが、確実に規制派につくでしょうし、そうなると民主党内のバリバリの規制派である小宮山洋子とタッグを組んで、何か仕掛けてくることにもなるでしょう。
でも、そういうシチュエーションにいちいち過敏な反応をしても、精神的に消耗するだけで、あんまり意味がないと私自身は考えています。それは、相手の活動を無視しろという意味ではなくて、本人を説得するんじゃなくて別の迂回路を使って反対活動をやって下さいということです。
ぶっちゃけ、エロ嫌いの人にポルノの良さを伝えるのは、納豆嫌いの人に納豆を無理やり食わせるのと遜色がないくらい反感を買う行為でしか無い場合が多いんです。まあ、嫌いな奴に限って、中立的、かつ客観的な立場のフリをしたがるんですが! 他の議員さんに対する対応法に関しては、次の機会に。
キャンパスに向かう前にユニセフ議連の会合
に参加させてもらいました。衆議院会館にNY
からユニセフの事務局長が来られてお話をされ
るということで参加いたしました。
アグネス・チャンさんのお話しもお聞きしました。
現場に即した素晴らしいお話でした。
議論のなかで、
児童ポルノグラフィの問題をはじめて知りました。
実在する児童の図画は規制できても、コミックス
やゲームという仮想対象の図画は規制しにくい
ので、文書・図画の規制とは別の方法で規制す
ることの可能性を検討しているとのことでした。
で、ですね。あくまで個人的な提案なんですが、平議員への攻撃は控えた方が良いと思います。その理由ですが、この時期の国会議員、特に新人や再選の議員には、地元の利権代表に加えて、有象無象の怪しい「政治活動家」がロビイング攻勢をかけてくるのが通例だからです。つまり、知名度があるとはいえ、アグネス・チャンはこうした「怪しい政治活動家」のワン・オブ・ゼムに過ぎません。もちろん、我々も同様です。
しかし、それでも平議員の意見表明には納得がいかないという方には、民主党支持者限定ですが効果的な方法があります。それは、民主党の石井一議員に平議員の件を報告する、というものです。
何故に平議員本人ではなくて、石井議員なのかというと、
1)石井議員が来年度の参院選の選挙対策委員だから。
2)石井議員は民主党の中でも反公明党の急先鋒とも言える存在だから。
3)石井議員は、民主党内における新人議員の育成担当(?)だから。
です。つまり、創価学会とずるずるべったりで、池田大作を褒め称えること甚だしい、アグネス・チャンの知名度をリバースで使ってしまおう、という目論見なんですね。
メールの文面は以下のようなものが望ましいでしょう。ただし、今回の件はコピペを避けたいので箇条書きにしておきます。文面に関しては、ご自身で作成して下さい。
1)時節の挨拶
2)自分の氏名職業、及びに民主党支持者であることの表明。
3)来年度の参院選でも、民主党を応援したいと思っている旨の表明。
4)ただし、民主党が公明党と連立を組む場合は例外であるという念押し。
5)そこで疑問があると話を切り返す。
6)平議員のブログで、アグネス・チャンの話を聞いたという部分の紹介。
7)アグネス・チャンは創価学会とべったりのタレントで、公明党の為に政治活動をしているという旨を報告。
EX)
●アグネス・チャンが本部幹部会で池田大作を礼賛
・12月7日付「聖教新聞」「山本伸一作詞の曲をアグネス・チャンさんが熱唱」「アグネス・チャンさん『池田先生の平和の行動は世界中の人の力になっています』」
「『池田先生と奥様、並びにアグネス・チャンさんが入場されます!』司会の声に満場の参加者がどよめく。沸き起こる拍手と大歓声。
池田名誉会長とともに、本部幹部会の会場に現れたアグネス・チャンさん。司会の紹介を受け、深々とお辞儀をし、特設ステージに立つ。イントロが流れる。曲は『そこには 幸せが もう生まれているから』。名誉会長が作詞し、アグネスさんが作曲した作品である。
「時に繊細に、時に力強く――心を込めて歌い終えたアグネスさん。大拍手で讃える名誉会長と香峯子夫人。アグネスさんは何度もお辞儀をし、語り始めた。
『池田先生、奥様、そして皆さん、こんにちは!アグネス・チャンです。34年ぶりに先生と再会することができ、今、胸がいっぱいです。もう頭は真っ白です』」
「10月31日、北京の人民大会堂でのコンサートに臨み、名誉会長作詞の曲を含めた歌を高らかに響かせた。
『池田先生は、ずっと平和の活動を続けてこられました。先生の行動は、世界中の人々の力となっています。先生からいただいたポエム(詩)。そこには大切なメッセージがあります。平和の大切さと、戦争の悲しみが込められています』
『先生の歌を歌い広めるのが、私の定めだとも思います。でも私一人の力には限りがあります。皆さんも、この歌をあちこちで歌ってください。先生からいただいたもう一つの曲『ピースフル ワールド!』です!」
「席上、アグネス・チャンさんに『民音文化賞』が贈られた。池田名誉会長が見守る中、原田会長が賞状を読み上げる。
『貴女は永年にわたり美しき歌声で平和への歌を歌い続け 人々の心の中に『幸せの花』を咲かせてこられました また日本ユニセフ協会大使等の重責を務められ あらゆる悲しみをなくすため勇敢に誠実に信念の行動を貫いてこられました』
平和を熱願する名誉会長の詩と、その歌を抱きしめて2度の病を勝ち越えたアグネスさん。満面の笑顔で勝利の歌声を響かせる彼女に、友は新たな平和への前進を誓い合った」
8)新人議員が、公明党のために政治活動をしているタレントに接触し、かつ影響を受けるのはいかがなものかと疑問を提示。
9)締めの言葉(石井議員の活動=反公明党を応援していると激励するのが筋で、政教分離が大事だと主張)。
と、こんな感じです。石井議員のホームページはここで、メールアドレスはここになります。
ただし、繰り返しますけど、あくまでも平議員の対応に納得がいかない人で、かつ民主党支持者限定ですからね。平議員に限らず、今後は民主党の新人議員の何人かが、確実に規制派につくでしょうし、そうなると民主党内のバリバリの規制派である小宮山洋子とタッグを組んで、何か仕掛けてくることにもなるでしょう。
でも、そういうシチュエーションにいちいち過敏な反応をしても、精神的に消耗するだけで、あんまり意味がないと私自身は考えています。それは、相手の活動を無視しろという意味ではなくて、本人を説得するんじゃなくて別の迂回路を使って反対活動をやって下さいということです。
ぶっちゃけ、エロ嫌いの人にポルノの良さを伝えるのは、納豆嫌いの人に納豆を無理やり食わせるのと遜色がないくらい反感を買う行為でしか無い場合が多いんです。まあ、嫌いな奴に限って、中立的、かつ客観的な立場のフリをしたがるんですが! 他の議員さんに対する対応法に関しては、次の機会に。
文章の善し悪しをジャッジする基準・完結編3
- ジャンル : 日記
- スレッドテーマ : ひとりごとのようなもの
時間が空いてしまいましたが、続きに行きましょう。
B.社会的事実や歴史的事実に対するリアリティ
というのは、歴史的事実を出来る限り改編せずに小説を書くことによってリアリティを維持する手法を指します。いわゆる、歴史小説がこれに当たるものです。たとえば織田信長を主人公とした小説を書こうとしたら、信長は1582年6月21日に本能寺の変で死ななければならない、というのが「歴史的事実に対するリアリティ」です。これが生き延びて別人として生活するとか、歴史が変わって信長が世界征服に乗り出す……なんて構成を採った場合は、単なる戦国時代を舞台とした娯楽小説になってしまうわけです。
このような整合性は風俗、科学技術の発展にも当てはまります。例えば、戦国時代の武将が戦車や機関銃で大暴れという内容の作品はリアリティがあるとは言われません。この点で科学技術の発展の正確性は、
C.科学、あるいは自然科学に基づいたリアリティ
とも被ります。現存する娯楽小説で、風俗考証の正確性で群を抜いているのは、岡本綺堂の『半七捕物帳』だというのが衆目の一致した見解ですが、これは新聞記者時代の綺堂が、江戸時代の生き証人達にインタビューをとっていたからだと言われています。小説内の日付の天気と、実際の天気までほぼ一緒というのですから、ちょっとこれを越える作品を作るのは難しいでしょう。
ここでちょっと話を戻して、
C.科学、あるいは自然科学に基づいたリアリティ
になるんですが、これはまあ、説明不要ですね。いわゆるSFを筆頭とした科学的な描写の正確性が要求される作品に於いて、特に吟味される傾向が強いリアリティです。たとえば、宇宙空間でモビルスーツがビームを撃つというシーンで、真空なんだから音が出ちゃいけないだろうとか、そういうところです。
さて、難しいのはここからです。
私は小説におけるリアリティを「現実逃避型の娯楽に対する批判」として主張されるケースが多いと書きました。しかし、先ほど例に挙げた岡本綺堂の『半七捕物帳』などが典型ですが、娯楽小説でもリアリティを上手く表現できている作品というのは存在するわけです。ということは、現実逃避とリアリティは必ずしも対立項ではない、ということになります。
それでは、何故にこのような主張が成されるのかというと、小説というか「お話」の書き方に幾つかの方法があるからです。
娯楽というのは、本来「面白ければ何でも良い」という観点から制作されます。つまり、娯楽小説の場合は「面白い話」が作品のコアになるわけです。これは作品の総合判断基準になりますし、ストーリーを構成している各エピソードにも同様の基準でジャッジが下されます。ここで重要なのは、娯楽=面白さはあくまでも話=ストーリーにかかっていることにあります。つまり、「こんな面白い話があるんだけど……」というところから創作がスタートして、このストーリーをどこまで面白くできるかが作者の腕の見せ所、という創作過程を辿るはずなんですね。
ところが、お話の作り方にはもう1つの方法があります。こちらの方は「面白いかどうか」があまり問われません。じゃあ、どういう風に話を作るのかというと、まず「テーマ」を決めて、そこから演繹的にストーリーを構成していきます。この方法で作られた小説をテーマ小説と呼びます。作業手順からすると、テーマ演繹法と呼ぶのが正確だと思われます。たとえば、政治的主張をストーリーとして語るとか、宗教的な教義をストーリーとして語る、などというのがテーマ演繹法で作られた創作物の典型で、かなり古くからこの技法があったことがお分かりいただけると思います。
テーマ演繹法の最大の特徴は、ストーリーを最初に作る必要がないという点にあります。これはもの凄い転倒で、普通なら「お話」を最初に考えるところから創作がスタートするのに対して、最初に「テーマ」を考えるところから創作がスタートするのでこのような現象が起こるわけです。
といっても、なかなかピンと来ないでしょうから、具体的にテーマ演繹法でストーリーを作っていきましょう。
まず『恋愛』というテーマで小説を作ることが決まったとします。
そうすると、まず思いつくのが恋愛をするカップルの設定が必要だと言うことです。そこで、男女のカップルのキャラクターを仮設定します(BLだったら男性同士でも構いません)。
続いて、このカップルが恋愛を成就するまでの過程を描く必要から、彼らの恋愛を邪魔するキャラクターを仮設定します。これは、男性に横恋慕する女性だったり、あるいはその逆だったり、または二人の恋仲を認めない親だったりします。
しかし、これだけではストーリーの進行が阻害されるだけなので、カップルを陰に日向にと援助するキャラクターを仮設定してみましょう。これは、男性の友人だったり、女性の友人だったり、思い切ってファンタジックな架空生物にしても良いかもしれません。
こうして、恋愛というテーマを表現するために必要なキャラクターの仮組が終わったら、続いてこれらのキャラクターを「配置」してストーリーを作ります。たとえば、カップルはストーリー当初から知り合いなのか、それとも、ストーリーの進行上で知り合いになるのかなどが、この「配置」にあたります。
これは、あくまでも大ざっぱな方法ですが、以上のようにテーマ演繹法では、ほとんどの場合、まずテーマに沿ったキャラクターの仮組が行われ、これをテーマを表現するのに相応しいポジションに配置して、そこからストーリーを作っていくという方法を採ります。要するに、テーマ演繹法で大切なのは、まずはテーマで、次にこのテーマを表現するためのキャラクター配置なのです。
こうやって、手順を解説していくと、テーマ演繹法で作られる小説と、通常の娯楽小説では、ほとんど正反対の過程で創作が行われていることがお分かりいただけるはずです。
クリエーターから見た場合、テーマ演繹法の最大の利点は「簡単に作れる」ことです。キャラクターやシチュエーションの取捨選択を「テーマに沿っているかどうか?」でオートマティックに決定できるから、というのがその理由です。テーマ演繹法で作品を作ろうと思えば、誰にでもストーリーの骨組みまでは簡単に出来ます。というよりも、テーマ演繹法ができないなら、その人は作家を諦めるべきでしょう。
2つめの利点としては、出版社の企画会議を通りやすいという事情が挙げられます。後に詳しく説明しますが、プロの作家や編集者、そして評論家でも「何が面白いのか?」を論理的に説明できる人間はまずいません。これは論理構成能力の欠如が原因ですが、彼らの大半は自分のことを棚上げにして、面白さはブラックボックス、あるいは感性の問題であると考えています。
以上の理由から、企画会議の際に「この作品はどこが面白いのか?」という議論が成されることはまずありません。その代わり「今回の作品は、テーマが愛です」などというプレゼンテーションが行われることになります。その際にテーマ演繹型の作品は、プレゼンター、この場合は編集長クラスの編集者が「分かり易く」テーマを説明できるため、会議で承認を得やすいという状況が生じるわけです。
3つめの利点としては、作者の文章力がそれほど必要ない、ということが挙げられます。つまり、テーマ演繹法を使った作品では、キャラクターがテーマに沿って特定の役割を果たすために登場することが前提ですから、文章構成上のテクニックが無くても、読者は「ああ、このキャラクターは××の役割を果たすために存在するんだな」と認識することが可能なんです。これは、よく言えば分かりやすさ、悪く言えば読者に「先を読まれている」状況なのですが、それ故に文章力が最低レベルでも読者がテーマ演繹法と同じ思考論理を辿って、作者のつたない文章力を脳内で勝手に補正してくれるんですね。
B.社会的事実や歴史的事実に対するリアリティ
というのは、歴史的事実を出来る限り改編せずに小説を書くことによってリアリティを維持する手法を指します。いわゆる、歴史小説がこれに当たるものです。たとえば織田信長を主人公とした小説を書こうとしたら、信長は1582年6月21日に本能寺の変で死ななければならない、というのが「歴史的事実に対するリアリティ」です。これが生き延びて別人として生活するとか、歴史が変わって信長が世界征服に乗り出す……なんて構成を採った場合は、単なる戦国時代を舞台とした娯楽小説になってしまうわけです。
このような整合性は風俗、科学技術の発展にも当てはまります。例えば、戦国時代の武将が戦車や機関銃で大暴れという内容の作品はリアリティがあるとは言われません。この点で科学技術の発展の正確性は、
C.科学、あるいは自然科学に基づいたリアリティ
とも被ります。現存する娯楽小説で、風俗考証の正確性で群を抜いているのは、岡本綺堂の『半七捕物帳』だというのが衆目の一致した見解ですが、これは新聞記者時代の綺堂が、江戸時代の生き証人達にインタビューをとっていたからだと言われています。小説内の日付の天気と、実際の天気までほぼ一緒というのですから、ちょっとこれを越える作品を作るのは難しいでしょう。
ここでちょっと話を戻して、
C.科学、あるいは自然科学に基づいたリアリティ
になるんですが、これはまあ、説明不要ですね。いわゆるSFを筆頭とした科学的な描写の正確性が要求される作品に於いて、特に吟味される傾向が強いリアリティです。たとえば、宇宙空間でモビルスーツがビームを撃つというシーンで、真空なんだから音が出ちゃいけないだろうとか、そういうところです。
さて、難しいのはここからです。
私は小説におけるリアリティを「現実逃避型の娯楽に対する批判」として主張されるケースが多いと書きました。しかし、先ほど例に挙げた岡本綺堂の『半七捕物帳』などが典型ですが、娯楽小説でもリアリティを上手く表現できている作品というのは存在するわけです。ということは、現実逃避とリアリティは必ずしも対立項ではない、ということになります。
それでは、何故にこのような主張が成されるのかというと、小説というか「お話」の書き方に幾つかの方法があるからです。
娯楽というのは、本来「面白ければ何でも良い」という観点から制作されます。つまり、娯楽小説の場合は「面白い話」が作品のコアになるわけです。これは作品の総合判断基準になりますし、ストーリーを構成している各エピソードにも同様の基準でジャッジが下されます。ここで重要なのは、娯楽=面白さはあくまでも話=ストーリーにかかっていることにあります。つまり、「こんな面白い話があるんだけど……」というところから創作がスタートして、このストーリーをどこまで面白くできるかが作者の腕の見せ所、という創作過程を辿るはずなんですね。
ところが、お話の作り方にはもう1つの方法があります。こちらの方は「面白いかどうか」があまり問われません。じゃあ、どういう風に話を作るのかというと、まず「テーマ」を決めて、そこから演繹的にストーリーを構成していきます。この方法で作られた小説をテーマ小説と呼びます。作業手順からすると、テーマ演繹法と呼ぶのが正確だと思われます。たとえば、政治的主張をストーリーとして語るとか、宗教的な教義をストーリーとして語る、などというのがテーマ演繹法で作られた創作物の典型で、かなり古くからこの技法があったことがお分かりいただけると思います。
テーマ演繹法の最大の特徴は、ストーリーを最初に作る必要がないという点にあります。これはもの凄い転倒で、普通なら「お話」を最初に考えるところから創作がスタートするのに対して、最初に「テーマ」を考えるところから創作がスタートするのでこのような現象が起こるわけです。
といっても、なかなかピンと来ないでしょうから、具体的にテーマ演繹法でストーリーを作っていきましょう。
まず『恋愛』というテーマで小説を作ることが決まったとします。
そうすると、まず思いつくのが恋愛をするカップルの設定が必要だと言うことです。そこで、男女のカップルのキャラクターを仮設定します(BLだったら男性同士でも構いません)。
続いて、このカップルが恋愛を成就するまでの過程を描く必要から、彼らの恋愛を邪魔するキャラクターを仮設定します。これは、男性に横恋慕する女性だったり、あるいはその逆だったり、または二人の恋仲を認めない親だったりします。
しかし、これだけではストーリーの進行が阻害されるだけなので、カップルを陰に日向にと援助するキャラクターを仮設定してみましょう。これは、男性の友人だったり、女性の友人だったり、思い切ってファンタジックな架空生物にしても良いかもしれません。
こうして、恋愛というテーマを表現するために必要なキャラクターの仮組が終わったら、続いてこれらのキャラクターを「配置」してストーリーを作ります。たとえば、カップルはストーリー当初から知り合いなのか、それとも、ストーリーの進行上で知り合いになるのかなどが、この「配置」にあたります。
これは、あくまでも大ざっぱな方法ですが、以上のようにテーマ演繹法では、ほとんどの場合、まずテーマに沿ったキャラクターの仮組が行われ、これをテーマを表現するのに相応しいポジションに配置して、そこからストーリーを作っていくという方法を採ります。要するに、テーマ演繹法で大切なのは、まずはテーマで、次にこのテーマを表現するためのキャラクター配置なのです。
こうやって、手順を解説していくと、テーマ演繹法で作られる小説と、通常の娯楽小説では、ほとんど正反対の過程で創作が行われていることがお分かりいただけるはずです。
クリエーターから見た場合、テーマ演繹法の最大の利点は「簡単に作れる」ことです。キャラクターやシチュエーションの取捨選択を「テーマに沿っているかどうか?」でオートマティックに決定できるから、というのがその理由です。テーマ演繹法で作品を作ろうと思えば、誰にでもストーリーの骨組みまでは簡単に出来ます。というよりも、テーマ演繹法ができないなら、その人は作家を諦めるべきでしょう。
2つめの利点としては、出版社の企画会議を通りやすいという事情が挙げられます。後に詳しく説明しますが、プロの作家や編集者、そして評論家でも「何が面白いのか?」を論理的に説明できる人間はまずいません。これは論理構成能力の欠如が原因ですが、彼らの大半は自分のことを棚上げにして、面白さはブラックボックス、あるいは感性の問題であると考えています。
以上の理由から、企画会議の際に「この作品はどこが面白いのか?」という議論が成されることはまずありません。その代わり「今回の作品は、テーマが愛です」などというプレゼンテーションが行われることになります。その際にテーマ演繹型の作品は、プレゼンター、この場合は編集長クラスの編集者が「分かり易く」テーマを説明できるため、会議で承認を得やすいという状況が生じるわけです。
3つめの利点としては、作者の文章力がそれほど必要ない、ということが挙げられます。つまり、テーマ演繹法を使った作品では、キャラクターがテーマに沿って特定の役割を果たすために登場することが前提ですから、文章構成上のテクニックが無くても、読者は「ああ、このキャラクターは××の役割を果たすために存在するんだな」と認識することが可能なんです。これは、よく言えば分かりやすさ、悪く言えば読者に「先を読まれている」状況なのですが、それ故に文章力が最低レベルでも読者がテーマ演繹法と同じ思考論理を辿って、作者のつたない文章力を脳内で勝手に補正してくれるんですね。
更新が遅れて申し訳ありません。
実はプライベートな件で大転換があったため、とてもネットどころではないという状況でした。というか、現在でもこの大転換は継続中で、11月になるまでは先行き不透明というのが実情です。
その間に民主党による組閣が進み、内閣の全容も明らかになったところで、いよいよ規制推進派も活動を再開したようです。具体的にはレイプレイ事件で悪名を馳せたイクォーリティ・ナウが、規制問題のキーパーソンにメールによる攻勢を仕掛け始めた模様。
イクォーリティ・ナウのサイトから判断すると、メール攻勢の対象となっている人物は、
1)アマゾンジャパンの社長である、ジャスパー・チャン。
2)民主党・鳩山由紀夫(第93代内閣総理大臣)
3)社民党・福島瑞穂(内閣府特命担当大臣・消費者及び食品安全担当・少子化対策担当・男女共同参画担当)
4)民主党・千葉景子(法務大臣)
の4人と思われます。
この中で要注意なのは福島瑞穂で、これは本人の思想信条よりも男女共同参画担当という政治的なポジションが原因です。公明党もそうだったんですが、男女共同参画絡みの官僚の中に、どうも反ポルノでゴリゴリに固まった人がいるようで、長期間にわたって男女共同参画に関わっていると、いつの間にか規制推進派の言い分を少しずつ呑んでいってしまう……といった状況が生じる危険性があるからです。
また、福島と千葉は2000年に「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」を提出した関係から、従軍慰安婦問題から横滑りしてきた児童ポルノ規制推進派と何らかのコネクションがあることが予想され、これを通じて毒を盛られる危険性も考慮しておくべきでしょう。ただし、児ポ法関連の創作物表現規制問題に関しては、どちらも慎重論を表明しており、この点ではよっぽど凄いダブルクロスさえなければ、それほど心配する必要はありません。
やはり問題なのは、今回の件が「レイプ」を扱ったパソコンゲームであるという事実です。これなら直接的に児童ポルノとは関連性がないため、規制推進を黙認する危険性が残されています。
規制反対派も改めてメールや封書で福島や千葉議員に事情を説明しておく必要があると思われます。
今回は事情説明のみで、具体的な案に関してはもう少し待って下さい。この問題に関する経緯に関しては、Запретная Зонаに書かれていますので、そちらを参照して下さい。
実は、このメール攻勢が起こる前に、広島県の小学校で女児に悪戯しまくって懲役30年の実刑判決が下った、元教師の森田直樹の一件を調べていたんですが、森田に広汎性発達障害の傾向があるとする弁護側の犯罪心理鑑定書が証拠採用されていたのを見て「うーん」と唸っていた最中でした。
もちろん、アスペルガー障害の人が、すべからくこういう事件を起こすわけではないし、むしろ犯罪に関わる率は普通の人よりもずっと少ないんですが、こういう「常識的に考えてあり得ない」事件の背景には、やっぱり脳の問題があるんですよ。
ところが、具体名は挙げませんけど、犯罪ウオッチャーを自称している連中の中には、性犯罪の累犯者に精神病患者や知的障害者が多いという事実を無視、あるいは調べてもいないのに「犯罪者を社会的弱者に見立てるのは許せない!」と喚いていたりするんですよね。
これが規制推進派になると、事実無視と論理的飛躍が更に激しくなって、ポルノのせいで犯罪が起こるってことになるんですが、現実世界の人間の脳にばらつきがあるんだから、受け取った情報をどう処理するかは、その脳の状態に大きく左右されるという、ごく当たり前の事実をどうして認識できないのか、いくら考えてもよく分かりません。
人間の脳にばらつきがないなら、確かに犯罪を起こすのは環境のせいかもしれないし、あるいは育成のせいかもしれませんよ。でも、現実の人間には誰がどう考えたって個体差があります。だから、「人間の脳が同じだったら……」という前提で演繹された理論は、必ず現実から乖離するんです。
実は、レイプレイの一件でてんやわんやだった時期に、私は池袋ショッピングセンター(ISP)にある多目的トイレに入っていて、そのトイレを執拗に開けようとした上に、中に入って(私に)悪戯しようとした男性をひっ捕まえたんですけど、こいつはどこからどう見ても知的障害者でした。多分、何らかの事情で性的に興奮するスイッチが入っちゃって、トイレに入っている人間を見境なく襲おうとしたんでしょう。
これが私じゃなくて非力な女の子だったら、確実に強姦未遂か強姦事件発生ですよ。いろいろ考えた末に、この男性を警察に突き出すのは止めましたけど、こういう現実を知らないで、新聞の記事だけ読んで義憤を募らせるのってどうよ? もうちょっと「現実」を見る気にはなれないんですかね?
実はプライベートな件で大転換があったため、とてもネットどころではないという状況でした。というか、現在でもこの大転換は継続中で、11月になるまでは先行き不透明というのが実情です。
その間に民主党による組閣が進み、内閣の全容も明らかになったところで、いよいよ規制推進派も活動を再開したようです。具体的にはレイプレイ事件で悪名を馳せたイクォーリティ・ナウが、規制問題のキーパーソンにメールによる攻勢を仕掛け始めた模様。
イクォーリティ・ナウのサイトから判断すると、メール攻勢の対象となっている人物は、
1)アマゾンジャパンの社長である、ジャスパー・チャン。
2)民主党・鳩山由紀夫(第93代内閣総理大臣)
3)社民党・福島瑞穂(内閣府特命担当大臣・消費者及び食品安全担当・少子化対策担当・男女共同参画担当)
4)民主党・千葉景子(法務大臣)
の4人と思われます。
この中で要注意なのは福島瑞穂で、これは本人の思想信条よりも男女共同参画担当という政治的なポジションが原因です。公明党もそうだったんですが、男女共同参画絡みの官僚の中に、どうも反ポルノでゴリゴリに固まった人がいるようで、長期間にわたって男女共同参画に関わっていると、いつの間にか規制推進派の言い分を少しずつ呑んでいってしまう……といった状況が生じる危険性があるからです。
また、福島と千葉は2000年に「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」を提出した関係から、従軍慰安婦問題から横滑りしてきた児童ポルノ規制推進派と何らかのコネクションがあることが予想され、これを通じて毒を盛られる危険性も考慮しておくべきでしょう。ただし、児ポ法関連の創作物表現規制問題に関しては、どちらも慎重論を表明しており、この点ではよっぽど凄いダブルクロスさえなければ、それほど心配する必要はありません。
やはり問題なのは、今回の件が「レイプ」を扱ったパソコンゲームであるという事実です。これなら直接的に児童ポルノとは関連性がないため、規制推進を黙認する危険性が残されています。
規制反対派も改めてメールや封書で福島や千葉議員に事情を説明しておく必要があると思われます。
今回は事情説明のみで、具体的な案に関してはもう少し待って下さい。この問題に関する経緯に関しては、Запретная Зонаに書かれていますので、そちらを参照して下さい。
実は、このメール攻勢が起こる前に、広島県の小学校で女児に悪戯しまくって懲役30年の実刑判決が下った、元教師の森田直樹の一件を調べていたんですが、森田に広汎性発達障害の傾向があるとする弁護側の犯罪心理鑑定書が証拠採用されていたのを見て「うーん」と唸っていた最中でした。
もちろん、アスペルガー障害の人が、すべからくこういう事件を起こすわけではないし、むしろ犯罪に関わる率は普通の人よりもずっと少ないんですが、こういう「常識的に考えてあり得ない」事件の背景には、やっぱり脳の問題があるんですよ。
ところが、具体名は挙げませんけど、犯罪ウオッチャーを自称している連中の中には、性犯罪の累犯者に精神病患者や知的障害者が多いという事実を無視、あるいは調べてもいないのに「犯罪者を社会的弱者に見立てるのは許せない!」と喚いていたりするんですよね。
これが規制推進派になると、事実無視と論理的飛躍が更に激しくなって、ポルノのせいで犯罪が起こるってことになるんですが、現実世界の人間の脳にばらつきがあるんだから、受け取った情報をどう処理するかは、その脳の状態に大きく左右されるという、ごく当たり前の事実をどうして認識できないのか、いくら考えてもよく分かりません。
人間の脳にばらつきがないなら、確かに犯罪を起こすのは環境のせいかもしれないし、あるいは育成のせいかもしれませんよ。でも、現実の人間には誰がどう考えたって個体差があります。だから、「人間の脳が同じだったら……」という前提で演繹された理論は、必ず現実から乖離するんです。
実は、レイプレイの一件でてんやわんやだった時期に、私は池袋ショッピングセンター(ISP)にある多目的トイレに入っていて、そのトイレを執拗に開けようとした上に、中に入って(私に)悪戯しようとした男性をひっ捕まえたんですけど、こいつはどこからどう見ても知的障害者でした。多分、何らかの事情で性的に興奮するスイッチが入っちゃって、トイレに入っている人間を見境なく襲おうとしたんでしょう。
これが私じゃなくて非力な女の子だったら、確実に強姦未遂か強姦事件発生ですよ。いろいろ考えた末に、この男性を警察に突き出すのは止めましたけど、こういう現実を知らないで、新聞の記事だけ読んで義憤を募らせるのってどうよ? もうちょっと「現実」を見る気にはなれないんですかね?
