王様を欲しがったカエル
作家・シナリオライター・編集者を兼任する鳥山仁の備忘録です。
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……などともの凄く遠回りをして書いてきたが、紙屋の問題点はこれまで私が批判してきた規制派とまったく同じである。一言で述べてしまうと、性愛に関する知識の欠如、ポルノに対する知識の欠如と、性愛へのネガティブで歪んだ価値観が融合して、ポルノ作品を批判的(悪い意味でね)に扱っているのだ。
このことは、前述の杉田の著書に対する評論と、蟹工船の漫画化に対する評論を読み比べると分かる。
『蟹工船』の書評に於いて、紙屋は蟹工船での労働を特殊な形態と認めつつも、「(2)特殊を通じて資本主義の普遍を描く」という項目を設け、
まさに弁証法でいう「特殊は普遍である」という命題そのものだ。
と作者である小林多喜二の手法を称揚し、とどめに
最後に、小説原作の場合、あまりこういうことは言わないつもりでいるのだが、『蟹工船』はぜひ小説へすすむべきである。
と原作小説を読むことを推奨しているのである。(ここは、よく覚えておいてね)
その一方で、紙屋はポルノに対して、
ぼくは、ポルノというのは「性の現実=豊かさを断片化し、貧しくしたもの」だと思っていた。
と言い、その後は、
「ポルノとは女性に対する暴力である」
という杉田の主張を留保付きながら承認してしまっている。同時に紙屋は「虚構が現実に影響を与える」というテーゼから、ポルノが現実に与える「否定的な」影響があるのではないかという推論を執拗に提示し続ける。
これは、ものすごいダブルスタンダードだ。
小説の蟹工船、及びにその漫画化作品を読んだ方ならば同意して頂けるだろうが、蟹工船という作品は「暴力的な労働」(こんな言い方をしたら、今村仁司に怒られちゃいますね。今村先生、すんません)をテーマにしたフィクションだ。紙屋の主張に従えば、この作品を読んだ資本家は、フィクションから「否定的な」影響を受けた結果として、労働者を更に搾取するようになる「可能性」がある。
ところが、紙屋はこの小説のテーマを賞賛し、蟹工船の原作を読むことを推奨しているのだ。
しかし、これがポルノになると扱いが一変し、「性の現実=豊かさを断片化し、貧しくしたもの」という否定的な表現を使ってくる。仮にポルノが特殊な性行為を扱った作品だとするのであれば、蟹工船で賞賛された「特殊は普遍である」という命題が、そのままポルノにも当てはまるはずである。どうして、ポルノだけは「豊かさを断片化し、貧しくしたもの」だと思えるのか? また、蟹工船が労働者への暴力を扱っているように、ポルノが女性への暴力を扱っていることに何の問題があるのだろう? 労働者を虐待、搾取する作品はオッケーで、女性を虐待、搾取する作品がNGなのは、一体どのような根拠に基づくのか?
……なーんて質問をしても、紙屋が答えてくれるわけがないので、私が代わりに答えます。紙屋は労働問題の知識があるので、蟹工船がどれぐらい「リアル」に基づいているのかを推定できるのに、ポルノと性愛に関する知識がそれほどないので、あるポルノ作品がどの程度「リアル」に基づいているかが推定できないため、「男権主義的イデオロギー」が作用してしまって、冷静な判断が出来なくなってるんですね。
でも、ここからネタばらしになるんですが、実は1990年代前半ぐらいまでのポルノ批判は、これで十分通用したんです。理由はアダルトビデオメーカーの数。大手でせいぜい十数社ってところだったんですよ。しかも、ビデオ監督の大半は映画青年崩れ。
そうなると、ポルノ女優は、せいぜい十数本の作品に出演したら(すべてのメーカーを回り終わってしまうので)引退。内容も割とドラマ性のあるもので、「性の現実=豊かさを断片化し、貧しくしたもの」というのも、あながち間違いじゃないかったんです。
ところが、1990年代の後半から、ビデオ倫理協会に所属しないアダルトビデオメーカーが林立しだして、今やメーカー数は百数十社規模に拡大。いわゆるインディーズビデオ時代が到来した段階で、すべてが変わってしまったんです。
どういうことかというと、メーカーの数が増えた分だけ女優も男優も出演作品数が増えちゃったわけです。売れっ子の企画単体クラスのAV女優なら、年間の出演数が100本を超えることもザラ。男優に至っては、そこそこ出演料が安いと年間で250日も現場に参加(!)ということになっちゃった。
こうなると、現場の回数に比例してセックスに関する技術が向上し、今まで「虚構」だと思っていたプレイの大半が「現実」になってきます。先ほどの100メートル走の例を持ち出すのであれば、今まではせいぜい11秒台で走るのが限界だったのが、ポテンシャルがある選手なら9秒台まで狙える環境って言うのが出来てきたわけ。
つまり、ポルノ出演者、及びに制作者のアスリート化が進行したんです。すべてのポルノを閲覧しているわけではないので断言まではできないんですけど、総合的に考えるのであれば、まず間違いなく日本の実写ポルノは世界の最先端を行ってます。
で、具体的にどこがアスレチックになったのかというと、女性がイクまでの時間と回数、及びにその手法の多様化という部分です(←ここが重要)。最近では「鬼いかせ」という名称を使った実写系ポルノが散見されるようになってますけど、女性が1回の性行為で数百回もイク様子を記録するジャンルこそ、実写系ポルノがたどり着いた一つの境地なんですね。
つまり、今まではポルノの挿入→女性が感じまくって絶頂→射精、というのは男性の欲望を充足させるためのフィクション(自分は悪くないんだ、女性もちゃんと感じたじゃないか)でしかないという言説が、ポルノを批評する際の重要なファクターだったんですけど、これが技術的に可能になっちゃった。だから、「セックスすれば女性がイク」という一連の流れがフィクション、という言説の方がもはや「フィクション」になってしまったんです。だって、技術的に出来るんだもん。
(続く)
このことは、前述の杉田の著書に対する評論と、蟹工船の漫画化に対する評論を読み比べると分かる。
『蟹工船』の書評に於いて、紙屋は蟹工船での労働を特殊な形態と認めつつも、「(2)特殊を通じて資本主義の普遍を描く」という項目を設け、
まさに弁証法でいう「特殊は普遍である」という命題そのものだ。
と作者である小林多喜二の手法を称揚し、とどめに
最後に、小説原作の場合、あまりこういうことは言わないつもりでいるのだが、『蟹工船』はぜひ小説へすすむべきである。
と原作小説を読むことを推奨しているのである。(ここは、よく覚えておいてね)
その一方で、紙屋はポルノに対して、
ぼくは、ポルノというのは「性の現実=豊かさを断片化し、貧しくしたもの」だと思っていた。
と言い、その後は、
「ポルノとは女性に対する暴力である」
という杉田の主張を留保付きながら承認してしまっている。同時に紙屋は「虚構が現実に影響を与える」というテーゼから、ポルノが現実に与える「否定的な」影響があるのではないかという推論を執拗に提示し続ける。
これは、ものすごいダブルスタンダードだ。
小説の蟹工船、及びにその漫画化作品を読んだ方ならば同意して頂けるだろうが、蟹工船という作品は「暴力的な労働」(こんな言い方をしたら、今村仁司に怒られちゃいますね。今村先生、すんません)をテーマにしたフィクションだ。紙屋の主張に従えば、この作品を読んだ資本家は、フィクションから「否定的な」影響を受けた結果として、労働者を更に搾取するようになる「可能性」がある。
ところが、紙屋はこの小説のテーマを賞賛し、蟹工船の原作を読むことを推奨しているのだ。
しかし、これがポルノになると扱いが一変し、「性の現実=豊かさを断片化し、貧しくしたもの」という否定的な表現を使ってくる。仮にポルノが特殊な性行為を扱った作品だとするのであれば、蟹工船で賞賛された「特殊は普遍である」という命題が、そのままポルノにも当てはまるはずである。どうして、ポルノだけは「豊かさを断片化し、貧しくしたもの」だと思えるのか? また、蟹工船が労働者への暴力を扱っているように、ポルノが女性への暴力を扱っていることに何の問題があるのだろう? 労働者を虐待、搾取する作品はオッケーで、女性を虐待、搾取する作品がNGなのは、一体どのような根拠に基づくのか?
……なーんて質問をしても、紙屋が答えてくれるわけがないので、私が代わりに答えます。紙屋は労働問題の知識があるので、蟹工船がどれぐらい「リアル」に基づいているのかを推定できるのに、ポルノと性愛に関する知識がそれほどないので、あるポルノ作品がどの程度「リアル」に基づいているかが推定できないため、「男権主義的イデオロギー」が作用してしまって、冷静な判断が出来なくなってるんですね。
でも、ここからネタばらしになるんですが、実は1990年代前半ぐらいまでのポルノ批判は、これで十分通用したんです。理由はアダルトビデオメーカーの数。大手でせいぜい十数社ってところだったんですよ。しかも、ビデオ監督の大半は映画青年崩れ。
そうなると、ポルノ女優は、せいぜい十数本の作品に出演したら(すべてのメーカーを回り終わってしまうので)引退。内容も割とドラマ性のあるもので、「性の現実=豊かさを断片化し、貧しくしたもの」というのも、あながち間違いじゃないかったんです。
ところが、1990年代の後半から、ビデオ倫理協会に所属しないアダルトビデオメーカーが林立しだして、今やメーカー数は百数十社規模に拡大。いわゆるインディーズビデオ時代が到来した段階で、すべてが変わってしまったんです。
どういうことかというと、メーカーの数が増えた分だけ女優も男優も出演作品数が増えちゃったわけです。売れっ子の企画単体クラスのAV女優なら、年間の出演数が100本を超えることもザラ。男優に至っては、そこそこ出演料が安いと年間で250日も現場に参加(!)ということになっちゃった。
こうなると、現場の回数に比例してセックスに関する技術が向上し、今まで「虚構」だと思っていたプレイの大半が「現実」になってきます。先ほどの100メートル走の例を持ち出すのであれば、今まではせいぜい11秒台で走るのが限界だったのが、ポテンシャルがある選手なら9秒台まで狙える環境って言うのが出来てきたわけ。
つまり、ポルノ出演者、及びに制作者のアスリート化が進行したんです。すべてのポルノを閲覧しているわけではないので断言まではできないんですけど、総合的に考えるのであれば、まず間違いなく日本の実写ポルノは世界の最先端を行ってます。
で、具体的にどこがアスレチックになったのかというと、女性がイクまでの時間と回数、及びにその手法の多様化という部分です(←ここが重要)。最近では「鬼いかせ」という名称を使った実写系ポルノが散見されるようになってますけど、女性が1回の性行為で数百回もイク様子を記録するジャンルこそ、実写系ポルノがたどり着いた一つの境地なんですね。
つまり、今まではポルノの挿入→女性が感じまくって絶頂→射精、というのは男性の欲望を充足させるためのフィクション(自分は悪くないんだ、女性もちゃんと感じたじゃないか)でしかないという言説が、ポルノを批評する際の重要なファクターだったんですけど、これが技術的に可能になっちゃった。だから、「セックスすれば女性がイク」という一連の流れがフィクション、という言説の方がもはや「フィクション」になってしまったんです。だって、技術的に出来るんだもん。
(続く)
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